歴史
トロイの遺跡を発見したことで知られる考古学者。『古代への情熱』、少年の夢を実現するに至る自伝的作品が有名。
シュリーマンがやってきた1865年とは
時代はすでに幕末の動乱期。徳川家茂は若くして将軍となり、1865年でまだ19歳。前年には薩英戦争が起こり、ちょうど長州征伐の最中である。シュリーマンは横浜で家茂が大阪に向かう行列をイギリス領事館の交渉で見ることになる。
6月4日に上陸するので、元治2年から慶応元年に変わってすぐの時だった。
1865年、第二次長州征伐を企図する。
これは長州藩が「尊皇攘夷」から「尊皇倒幕」へと藩是を変えたことで、「尊皇倒幕」の動きが他藩へ広がることを恐れたための処置であった。
家茂は江戸を出陣し大坂城に入り本営とした。
シュリーマンはどうして日本にこれたのか
当時は東京湾の海域には外国船は入ることができず、横浜港に到着
幕府は外国との貿易を推奨していたが、江戸の防衛は厳格に行われ、東京湾の海域に外国船は入ることができなかった。すでに幕府は軍艦を保有し、お台場など砲台を準備して外国への牽制も行っていた。
そんなことから、シュリーマンの乗った船も横浜港に到着することになる。
二人の官吏がにこやかに近付いてきて、オハイヨ〔おはよう〕と言いながら、地面に届くほど頭を下げ、30秒もその姿勢を続けた。次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ1分(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて「ニッポンムスコ」〔日本男児?〕と言い、これを拒んだ。
日本に上陸してすぐから皮膚病の人が多いことを発見する
6月4日に横浜に上陸すると、やってきた荷運びの人々がひどい皮膚病に犯されていることに気づく。ヘアスタイルがどこでも見たことのないチョンマゲ、裸でふんどし姿、日本風のイレズミに注目する。
そして彼は外国人居留地に向かった。
カロリーナ米よりも日本の米の方が美味しい。
パンではなく主食が米であることを知る。カロリーナ米よりも品質がいいと評価。ある食事の記録では、煮魚と刺身をおかずに食べている。
徳川家茂の行列を見物する
幕府と長州藩との間では紛争が続いていて、徳川家茂は大阪に向かうことになる。シュリーマンはちょうど家茂の行列を目の前にすることになる。当初、治安上の理由から外国人が観ることは禁じられたが、イギリス領事の要請によって、東海道で家茂の行列を見ることになった。
間違って行列を妨害した農民が切り捨てられ、切り捨てた下級武士は高官から血迷った対応だとしてさらに切り捨てられる。その死体が行列の跡に残されていた。シュリーマンは翌朝にそのことを知る。
翌朝、東海道(大街道)を散歩した私は、われわれが行列を見たあたりの道の真ん中に三つの死体を見つけた。死体はひどく切り刻まれていて、着ている物を見ても、どの階級の人間かわからないほどだった。
八王子の養蚕業を視察
シュリーマンはなぜか横浜から八王子へ出かけていった。横浜の開港によって八王子の養蚕業が活発になり、浜街道として行き来が盛んになっていた。現在の町田は原町田の地名でその経由地として大きな村となり、シュリーマンは原町田の茶屋で一泊することになる。
「横浜滞在中、あちらこちらに遠出をしたが、特に興味深かったものに、絹の生産地である大きな手工芸の町八王子へイギリス人と6人連れ立って行った旅がある」
麻布善福寺は当時のアメリカ合衆国公使館だった
江戸に入るのにシュリーマンは苦労するが、グラバーの仲介でアメリカ公使館のあった麻布の善福寺にやってくる。
この寺はシーボルトが訪れたこともある寺。
午後2時頃アメリカ合衆国公使館へ着いた。善福寺という大きな寺でその名は永遠の浄福を意味する。花崗岩の巨大な山門をくぐると、 大きな石を埋め込んだ道が広大な前庭横切って大寺院まで続いている。
アメリカ合衆国の代理公使ポートマンが出迎えてくれる。外国人への襲撃が繰り返されていたため、要塞のようになっていた。シュリーマンは防御体制の様子を見せてもらっている。
麻布善福寺にある親鸞上人手植てうえの銀杏と称せられるもの
愛宕山から江戸の町を眺める
「われわれはまず愛宕山を訪れた。・・・ここは高い丘で、われわれは花崗岩の立派な階段を登って行った。」(石井和子訳)
愛宕山は外国人が訪れる江戸の代表的な場所のひとつ。石段は現在も変わらない。
勝海舟と西郷隆盛の会談が行われたのはシュリーマンが去った3年後のことだった。
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