歴史
欧州
1452年4月15日~1519年5月2日
世界最高の美男子と言われるほどの容姿をだったと言われている一方で、少年/同性愛者であったとの噂もある。
若い頃の肖像画等が見つけられなかったのですが、ヴェロッキオのダビデ象は当時少年だったダヴィンチをモデルにしたものだとも言われています。
1478年7月22日~1506年9月25日
ブルゴーニュ公フィリップ4世/カスティーリャ王フェリペ1世この肖像画ではどうにも美男とは判断しがたいですが、各所でそう書かれているので、当時の美形だったのでしょう。
大層な美男で、かつ大層なプレイボーイだったとか。
シャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモン( 1728年10月5日–1810年5月21日)通称シュヴァリエ・デオン。フランスの外交官で竜騎兵の隊長も務めた。
生まれつき華奢な体格で、10歳頃まで母親は妹の服を着せていたらしい。
長く美しいブロンドの髪・青い瞳の彼は、成人しても色白で髭が生えず、女性用の靴を履いていたそうだが、体力もあり男性の活力が満ちていたという。彼の女装外交は有名です。
ルイ・アントワーヌ・レオン・ドゥ・サン=ジュスト(1767年8月25日 – 1794年7月28日)
秀でた美貌と冷徹さをもつ”革命の大天使”。
ロベス・ピエールとともに活動し、エロティックな風刺歌を出版して伝統・権威・国王を批判するなどしていた。
彼の処女演説がルイ16世の処刑を決定づけたが、最期の演説は妨害され26歳という若さで断頭台の上に散ってゆきました。
1845年8月25日 – 1886年6月13日
第4代バイエルン国王。美しい男性が大好物だった。
晩年は精神を病んでいるような状態になり、廃位させられた後はベルク城へ送らる。
シュタルンベルク湖畔の小さな町で水死体となっているのを医師に発見される。弟のオットーも、たいそうな美男である。
1894年6月23日~1972年5月28日
Prince Charmingの異名をとるイギリス国王。
ウィンザー朝の初代国王であるジョージ5世の息子。お洒落で多趣味なこの美青年は数々の女性遍歴をもつプレイボーイでしたが、1次大戦では陸軍の最前線派遣を志願したり、一般国民と気さくに触れ合い労働問題に取り組むなど男気あふれる一面も。
日本
もしくは倭建命。幼名は小碓命。
日本書紀、古事記など多くの歴史書に登場する人物。
書物によって記述は様々。
九州南部の熊襲討伐の際には少女の姿で宴会に紛れ込み、その美しさに惚れ込んだ熊襲健が油断をし、ヤマトタケルに討たれたという記述が残っている。
女装したヤマトタケルは他の女たちより格段に美しかったらしい。画像は月岡芳年の日本武尊、熊襲討伐の絵。
天長 2年( 825年 ) – 元慶 4年 5月28日 ( 880年 7月9日 )
平安貴族、歌人。
『日本三代実録』に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、また伊勢物語では何物にもとらわれない自由人なようすで描かれている。
(正平18年/貞治2年(1363年)? – 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)
お父さんの観阿弥とともに猿楽を大成させた人。観世流として現代に受け継がれている。観世座の噂を聞いた足利義満(当時17歳)は、京都で観劇した際に美少年の世阿弥に射ぬかれて、その後も熱心に観世座を後援したと言われている。
戦国三大美少年のひとり。
尾張出身の戦国武将で、蒲生氏郷の小姓。歌舞伎の創始者とされる出雲阿国の愛人とも言われている。
類まれなる美貌の持ち主で、蒲生は初見で少女と間違え娶ろうとして身元を調べさせたそうだ。画像は歌川国芳画の澤村長十郎扮する山三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B1%B1%E4%B8%89%E9%83%8E
戦国三大美少年のひとり。
水野少次郎の名で織田信雄の小性になるも、織田に罪状がくだり木村伊勢守の小性となる。木村が葛西一揆の罪を受けたため松浦左兵衛と名乗り蒲生氏郷に仕える。この時、名古屋山三郎と出会う。その後石田三成に使えるが、関ヶ原で敗れたため再び君主を失い、前田利常に招かれた際に浅香庄次郎と名乗った。この前田家で、蒲生のもとでともに仕えた名古屋の息子、隼人と出会っている。
主君が次々変わるというなんとも不運なお人。
天正6年(1578年) – 文禄4年(1595年) 織田秀次の小姓で、戦国三大美少年のひとり。
気が優しく、とても色の白い絶世の美少年だったらしい。
秀吉と淀との間に秀頼が生まれたため、秀次はお払い箱になる。秀次の家臣も一掃されたがその際、万作も殉死している。享年17歳。
天文23年(1554年)~天正7年3月24日(1579年4月19日) 北条氏康の七男として生まれ、幼少期は箱根早雲寺で喝食として過ごす。永禄13年に上杉謙信の養子となり美男で聡明な景虎は謙信に大変気に入られる。謙信没後、景勝との争いに破れ、自害。
元和7年(1621年)? – 寛永15年2月28日(1638年4月12日)
本名は益田四郎。父はキリシタン大名の家臣で、本人は秀才かつ容姿端麗。
彼が活躍した島原の乱は、日本初の農民一揆かつ最大の宗教紛争。四郎は大人たちの都合で、その戦いの象徴として祀り上げられたのではないか、と言われているhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%8D%89%E5%9B%9B%E9%83%8E
天保9年1月13日(1838年2月7日) − 慶応2年1月25日(1866年3月11日)
長州藩士で、下関戦争に参加した奇兵隊の第3代総管。
藩の為を思って動いたことが全て裏目に出て間者と疑られ、最期は同じ藩士に捕縛され、29歳で処刑されていまいました。
この写真は現代人の目から見ても、けっこう美男。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%A0%B9%E6%AD%A6%E4%BA%BA
弘化4年12月22日(1848年1月27日)~昭和9年(1934年)5月30日
薩摩藩出身。日清・日露戦争で活躍した海軍大将。ロシアのバルチック艦隊を撃ち破ったことは有名。
小柄な体型だったが、料亭に行くと芸者よりも人気があったと言われている。
弘化4年11月28日(1848年1月4日)~大正2年(1913年)10月10日)
のちの”ニコポン宰相”である。この写真は戊辰戦争時に撮影したものらしい。
明治になってからドイツへ留学後、木戸のつてで陸軍大尉に任命され、日清をへて明治34年に内閣総理大臣となる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E
(1919年1月8日 – 1945年2月17日)
外交官である日本人の父とアメリカ人の母のもとシカゴに生まれ、8歳で日本に来る。
小さい頃は外見のことでいじめにもあっていたが、青年期には色白で端正な顔と長身とで、大変人気があった。最終階級は陸軍技術少佐。
1945年、交戦に向かうため戦機に乗り込むところを、別の戦機のプロペラが頭に接触し、事故死した。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E6%A0%96%E8%89%AF
新選組
すらりと背が高く、目元の涼やかな美男子であったと言われている。
北辰一刀流をつかう剣の達人で、学識も高く新選組参謀を務めた策士である。
慶応3年3月に新選組を脱退し、御陵衛士として活動していたが、同月、近藤妾宅での宴会の帰り道
油小路で待ち伏せしていた隊士に暗殺される。彼の遺体は他の御陵衛士を誘き出すため、しばらく路上に放置された。
(弘化2年(1845年) – 文久3年8月2日(1863年9月14日)) 摂津大阪出身、新選組初期の隊士。美男五人衆のひとり。
永倉新八が「古今の美男なり」と記している。
恋人を芹沢鴨に取られぬよう、駆け落ちを試みたところを斬られたとする説と、長州間者として入隊したものの長州を裏切り、新選組に歩み寄ったために長州から暗殺された という説がある。
(嘉永元年(1848年)頃? – 明治20年(1887年)頃?) 美男五人衆のひとり。
笑うとえくぼのできる、女性のような容姿だったのが災いして、武田観柳斎に目をつけられてしまったが
武田が薩摩藩邸から出てくるのを偶然目撃し、これにより武田が制裁されたという。
池田屋事件頃に脱退している。
(弘化 元年( 1844年 ) – ?) 新選組美男五人衆のひとり。
文久 3年( 1863年)9月以前に、父・ 馬詰新太郎 と共に新選組に入隊。
気が弱いが女好きで、見た目の悪い小守の女性を身篭らせ、それを他の隊士に歌にされたために、居づらくなって隊を抜けたと言われている。
(1841年(天保12年) – 1910年(明治43年)) 加賀藩出身の新選組美男五人衆のひとり。
色白で眼が細く、常ににこにこして怒ることはなかったという。函館まで従軍した数少ない隊士。
嘉永元年( 1848年 )頃? – 元治 元年 9月26日 ( 1864年 10月26日 ))
京都 出身。新選組美男五人衆の1人。 長州藩 ・ 桂小五郎 の命で間者として入隊したとされる。
若々しく目がぱっちりした色白下ぶくれの顔で、女のように優しい声をしていたそうだ。
『新選組血風録-前髪の惣三郎』でおなじみ。
新選組隊士名簿には名前は存在しないが、実在したとされる。島原通いの資金調達のために辻斬り強盗を繰り返したのがバレて抹殺されたと言われている。
中国
???~紀元前186年
秦末期から前漢初期の政治家・謀将で劉邦配下の三傑のひとり。
代々韓の宰相を務めていた張家の息子であった彼は、韓が滅亡し父が死んだ後、弟の葬式も出さずに秦王(後の始皇帝)を暗殺する刺客を探していたと言われている。
容姿は、司馬遷曰く「婦人好女の如し」。優男風で穏やかな青年だったそうです。
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