歴史
✪ドイツ国民に嫌われていたヒトラー
1933年は、ヒトラーが政権獲得に先行し、一気に独裁国家の基礎をつくりあげることになる重要な年だ。
しかしその年頭、ナチズムは衰退に向かうだろうというのが一般的な見方だった。
前年11月の総選挙で勢いに陰りがみえ、選挙資金も底をつきかけていた。初の敗北に党員たちの気勢も上がらず、党内にも亀裂がおこりはじめていた。「ヒトラー総統は賞味期限が切れた」「ヒトラー王国の崩壊」などと揶揄する新聞記事も多くみられた。
この時点ではまだ、ドイツ国民の過半数は、ヒトラーやナチスに嫌悪感を抱いていたし、その存在を過小評価していたのだ。
✪ひとり強気だったヒトラー
ナチスの幹部たちも、今年は厳しい一年になるだろうと予測していた。
しかしヒトラーだけは、強気を崩さなかった。元旦、部下たちとワグナーのオペラを鑑賞したヒトラーは「今年は我々のものになる」と断言したという。
実際、彼の予言通り、その一カ月後ヒトラーは政権を奪取し、数カ月後には独裁体制を合法的に樹立することになる。
当時の首相はパーペンの後を継いで前年12月3日に発足したシュライヒャーだったが、一カ月もたたないうちに早くも政権運営が行き詰まっていた。
✪連立政権に引き入れようとする大統領
ヒンデンブルグ大統領は、誰が首相になっても議会で過半数が取れず機能しない状態にうんざりしていた。
大統領自身は兵卒で成り上がり者のヒトラーのことを嫌っていたが、安定した政権をつくるためには、議会第一党のヒトラーを連立政権に引き入れざるを得ない状況だったのだ。
ヒンデンブルグをはじめ、保守系の政党は、何とかヒトラーを副首相など閣僚の一員として迎え連立政権を組もうとして画策した。しかしヒトラーは、首相に就任すべきは自分だと主張して譲らなかった。
✪地方の選挙で圧勝しナチスの勢いが復活
そんな中、どの政党も注目していなかったリッペ州という地方議会の選挙に、ナチスは総力をあげて取り組み一大キャンペーンをおこなう。
ヒトラーは何度も現地入りし、精力的に演説を実施した。結果は圧勝。
普通の見方をすれば、単なる地方議会での勝利だったが、象徴的な意味合いは大きかった。衰退に向かうとみられていたナチスが勢いを取り戻した瞬間だった。
✪ヒトラー、首相に
1月後半、大統領をまじえた保守勢力とヒトラーとの交渉はぎりぎりまで続いた。あくまで強気のヒトラーの態度に交渉は難航した。
そのような状況で、パーペンは政権返り咲きを狙って、ヒンデンブルグにヒトラー首相任命を提言した。大統領もヒトラーを首相に任命せざるを得ないという決断を下す。ヒトラーは、首相の座以外は他党に大幅に譲歩した。内閣に入閣したのはナチスからはフリックとゲーリングのみ。主要ポストは他党に譲った。
こうして、1933年1月30日、ヒトラーはワイマール共和国の首相に任命されたのだ。43歳の時であった。
ヒトラー自身も側近でさえも、直前まで本当に首相に任命されるという確信をもてない中での就任だった。
現に、ヒトラーの忠臣で、後に国民啓蒙宣伝大臣になるヨーゼフ・ゲッベルスは「ヒトラーが首相、夢のようだ。まるでおとぎ話だ」と日記に記している。
✪過小評価されていたヒトラー
こうしてヒトラーは「合法的」に首相になった。
就任式でヒトラーは「私はドイツ国民の幸福を願い、もてる力のすべてを結集し、憲法と法律を遵守し、私に課せられた義務をその良心に従って実行し、いかなる人に対しても公平かつ公正に職務を遂行していく所存です」と大統領の前で誓いの言葉を復唱した。
ナチス政権が誕生したことに危惧を抱いていた勢力も、ヒトラーの穏健な態度にひとまず安心した。
その夜、ベルリンでは、ナチス支持者による大々的なたいまつ行進が実施され、深夜遅くまでお祭り騒ぎのような状態になった。これはゲッベルスのアイデアで、彼はその行進をラジオで実況中継し、さらに盛り上げた。
✪ナチスの台頭を楽観視していたドイツ国民
ただこのような熱狂はナチス支持者のあいだだけでおこったものだ。
ナチスの台頭を危惧する国民の多くはまだまだ事態を楽観視していた。
大臣のほとんどは他党でしめられているし、ナチスが議会で過半数をにぎっているわけでもない。大統領もいる。ヒトラー自身も、ああやって宣誓式で、共和国の憲法と法律を守ると誓ったではないか。
副首相に収まった元首相のパーペンはヒトラーを取り込んで、自らの政権を強化したぐらいのつもりでいた。二カ月後にはヒトラーを追いやって、自分が実権を握るつもりでいたのだ。共産党などの反対勢力も、ヒトラー政権はどんなに長くても一年二年で消えると予想していた。
✪首相がコロコロ変わる政治体制にうんざり
ナチス支持者以外の国民の多くは、首相がコロコロと変わる政治体制が日常茶飯事になっていたため、ヒトラー首相就任の意味を重大に考えていなかった。政治への無関心が蔓延していたのだ。
彼らは数カ月後、自分たちの考えが甘かったことを知る。
いずれもヒトラーを過少評価していたのだ。
✪独裁体制に向けて牙を剥き始める
ヒトラーの行動は早かった。
まずは宿敵、共産党から手をつけた。警察組織を押さえ、共産党を徹底的に弾圧した。政権獲得の日の夜にはドイツ共産党の新聞を発禁処分にし、ナチスと小競り合いになった共産党員をベルリンだけで60名逮捕した。
2月1日、大統領に提案してまたも議会を解散させた。
同日、ヒトラーは、首相就任後はじめてラジオで全国民にむけて施政方針を演説した。そこでは強硬派のイメージを一変させ、猫撫ぜ声ともいえるような柔らかな口調で、穏健的な政策を語った。また大統領に対しては最大級の賛辞を送り、へりくだることも忘れなかった。国民はそんなヒトラーの肉声を直接聞き、安心した。
✪軍部を安心させ持ち上げて支持を得る
2月3日、ヒトラーは軍の主要司令官の前で演説する。直接会うまで軍の幹部たちは、ヒトラーのことを軽んじ懐疑的でいた。何しろ相手は元伍長の成り上がり者だ。また、膨張を続けるナチスの突撃隊が軍を脅かす存在になるのではないかという危惧もあった。
しかしヒトラーの演説を聞くと、軍の司令官たちは態度を一変させた。まさに自分が聞きたい内容が言葉にされていたからだ。それは「軍備増強」であり「軍部の地位向上」であった。また突撃隊についても、軍部を安心させ持ち上げることを忘れなかった。
2月4日、「ドイツ民族保護のための大統領令」が公布される。これによって、デモ・集会・政党機関紙などが規制されることになる。
✪放火事件をきっかけに共産党員を一斉逮捕
さらに選挙戦の真っ最中の2月27日、ナチスを独裁に向かわせる決定的な事件がおこる。国会議事堂が何ものかによって放火され炎上したのだ。
ナチスはこの放火事件を共産党の仕業と断定(当時からナチス自身の自作自演説も根強くあったが真相は不明)。共産党が武力蜂起するという噂から非常事態を宣言し、翌朝からブラックリストに載っていた共産党員の一斉逮捕に踏み切った。また実行犯としてオランダ共産党員ファン・ルッペを逮捕して処刑した。
またヒトラーは、翌2月28日に「国民と国家の防衛のために」と名付けられた緊急令を大統領に提出した。
これはワイマール憲法が定める基本的人権や言論の自由等を停止し、政府が国民を自由に逮捕し好きなだけ勾留することが可能にするものだった。いわばワイマール憲法を骨抜きにし、今後12年に及ぶヒトラーの独裁の法的根拠を与えるものであった。
しかしその時点では、共産党の脅威の方に目がいき、多くの人間は独裁体制の始まりに気づかなかった。ヒンデンブルグ大統領もこれにあっさり署名した。
✪最初で最後の民主的な選挙
この緊急令を根拠に、ナチスは残りの選挙戦で他党を弾圧した。集会の自由を禁じて、機関紙なども発行禁止にした。
一方、財界からは巨額の選挙資金を拠出させ、大がかりな選挙運動を展開した。すべてのラジオ局はナチスの選挙活動だけを専ら放送した。
3月5日の投票日には、ナチスの突撃隊や親衛隊が街をパトロールし選挙民を威嚇した。まるで内戦さながらの選挙戦となった。またナチスは自動車隊を組織し、高齢者など歩行困難な人々を投票所へ動員した。
選挙結果は全647議席中、ナチスは288議席(得票率約44パーセント)と過半数に届かなかった。独占的な選挙運動にもかかわらず、まだ過半数の国民はナチス、ヒトラーを選ばなかったのだ。また猛烈な弾圧にもかかわらず共産党も81議席を獲得した。ちなみにこの選挙は、ヒトラー政権において最初で最後の民主的な選挙となる。
✪「独裁者・ヒトラー」を決定づけた演説
3月9日、選挙結果に不満をもったヒトラーは、81名の共産党の議席を剥奪。議席総数が588になり、ナチスは単独過半数を得ることになった。
しかしそれで満足するヒトラーではなかった。今度は「人民と国家の苦難を除去するための法案」を作成する。その内容は、タイトルとは大きくかけ離れていた。国家予算を含む立法権、外国との条約承認権、憲法修正の発議権などすべての立法府の権利を政府に四年間引き渡すという内容だった。つまり「全権委任法案」だ。
この法案の可決はワイマール憲法を改正する必要があるために、議員の3分の2の賛成が必要だった。
そこからナチスの他党への猛烈な工作が始まった。謀略や脅しや嘘の約束を駆使して、小政党から次々と賛成をとりつけた。
✪びっくりするくらいの低姿勢の演説
3月23日、ベルリンのクロル・オペラ劇場を仮議事堂として国会が開かれた。ヒトラーは今後の四カ年計画を発表するとともに、「全権委任法案」を提出した。
その時のヒトラーの演説は、びっくりするくらいの低姿勢だった。
「これは絶対に必要な万が一の時のための法律で、簡単に行使するものではないし、議会の権利も、大統領の地位も決して脅かすようなものではない」と、何度も強調した。また「フランス、イギリス、ソ連との平和的な関係を促進する」ことも約束した。
しかし演説の最後になると、ヒトラーは一転して強い口調でこう脅かした。「もしも議会がこの友好的な協力の機会を拒否するのであれば、我々は断固として議会と戦う決意がある。戦争を選ぶのか? 平和を選ぶのか? それを決めるのは、議員先生諸君、あなた達だ」
✪ヒンデンブルグ死去で独裁体制が確立
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