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【九戸政実】わずか5000の兵で6万余の豊臣軍に挑んだ戦国武将。。。

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歴史

◆歴史から消された『九戸政実の乱』

現在の岩手県二戸市(にのへし)にある九戸城趾。豊臣秀吉による天下統一が確実となった1591年(天正19年)秋、わずか5000の兵を率いた九戸政実は6万余の豊臣軍に四方を囲まれながら九戸城に籠城していた。

~~まずは当時の時代をざっと振り返る~~

◆1590年(天正18年)北条氏滅亡と宇都宮仕置

豊臣秀吉は下野国の宇都宮国綱、常陸国の佐竹義重とともに小田原征伐を行い、天正18年7月11日、小田原城は開城し、北条氏政・北条氏照兄弟が切腹、北条氏直ら北条一門の多くが高野山に配流となった。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡した。

秀吉は宇都宮城にあって、関東や奥羽の諸氏を宇都宮城に出頭させ、その戦後の所領措置(朱印状)を申し渡した。

◆奥州仕置軍による奥州平定、天下統一へ

秀吉は政宗の案内で、その没収した会津を新封となった蒲生氏郷、奉行だった浅野長政を筆頭とする奥州仕置軍を伴って巡察行軍を行った。秀吉は途中で再び宇都宮に戻ったが、奥州仕置軍は政宗の案内により8月6日に白河に到着、抵抗した葛西氏家臣を退けながら8月9日には会津黒川城(現在の会津若松城)に入る。その後、稗貫氏が城地を追放されたあとの鳥谷ヶ崎(十八ヶ崎)城(後の花巻城)に、奉行・浅野長政が入城して諸将に号令し、奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃して和賀氏ら在地領主の諸城を制圧した。浅野長政の家臣が代官として進駐し新体制への移行が進められ、検地などを行ったあと、郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。秀吉の天下統一の総仕上げはここに完了したのである。

◆秀吉の強引なやり方に一揆が多発

しかし、豊臣政権による強引な大名の再配置は多くの不満と軋轢を生んだ。まず、仕置軍の主力が奥州から引き上げると、改易された葛西氏・大崎氏の旧臣が中心となった葛西大崎一揆が木村領で発生する。これに呼応するかのように、旧和賀領と旧稗貫領で和賀・稗貫一揆、出羽仙北地方で仙北一揆、出羽庄内地方でも藤島一揆が発生した。

~~当時の南部氏を振り返る~~

◆南部晴政の死去、そして晴継の早すぎる死

天正一〇年(一五八二年)、晴政の後を継いだ南部氏二五代晴継も十三歳の若さで死去(病死とも暗殺ともいわれる)すると家督争いが起こります。

◆南部家26代当主は南部信直(のぶなお)に

南部家の一族家臣が誰を家督とするかについて三戸城で会議を開きました。会議の大勢は二派にわかれ、一派は南部氏一門の中では第一の実力者である九戸政実の弟で晴継の姉婿にあたる九戸実親(さねちか)を推し、他の一派である北信愛らは、晴政の従兄弟で、晴継の長姉の婿である信直を推しました。議論は紛糾し、実親を推す空気が強くありましたが、北信愛が事前に一族の有力者・根城南部氏の八戸政栄を調略し、信直を支持したので、後継者に信直が決定します。信直は北信愛の手勢に守られて田子から三戸城に入り二六代の当主となりました。九戸政実としては内心、自分が南部氏の領主となるか、または弟の実親を領主にたてて、九戸一族の手により南部領内の支配権を握りたかったと考えていましたが結果は思いもかけず、北信愛の強行意見により、二六代当主には信直が任命されました。

◆政実は不服、南部本家との対立は徐々に深まる

その後政実は、同じ南部氏の中でも、自分を支持する派閥の勢いを強化し、ことあるごとに信直に対抗するようになりました。信直の家督相続をめぐる南部一族の分裂は相続後もおさまらず、八戸政栄、北信愛等は信直を支持し、櫛引清長、七戸家国、久慈政則等は九戸政実を支持し、対立は深刻化しました。

◆なかには後継者争いが対立のきっかけではないとする見方も

通説では政実と信直の確執は、南部家相続の時からとされているが、不思議なことに信直の家督相続以降、先の七郡安堵の朱印状発行まで、信直と政実が直接戦ったという伝承は残っていない。その間、約20年だ(研究者によっては約10年とする)。

~~遂に挙兵、九戸政実の乱~~

◆1591年(天正19年)正月、本家との対立は決定的に

天正十九年(一五九一年)正月、三戸城で毎年恒例の新年参賀(家臣が領主に新年の御礼を申し上げること)を催しました。家臣の将たちは領主にお祝いを申し上げるならわしになっていましたがこの年は九戸政実と九戸派に属する者たちは欠席し、謀反の意志を明らかにしました。そのころ、奥州仕置きにより葛西・大崎氏が没落して多くの浪人が出たので、政実はその浪人らを雇い入れて、九戸の戦力を高めようとしている事が知られました。信直は再三警告しましたが、やめようとしません。南部の領主として黙って見ているわけにもいきませんが、東北も秀吉の配下に入って、惣無事令によって私闘が禁じられていたので勝手に九戸討伐を起こすわけにもいきません。(「物語 南部の歴史」P394~P395)

同年三月、九戸方の苫米地城攻撃を皮切りに、九戸政実は五千の兵を動かして挙兵し、周囲の城館を次々に攻め始めました。もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、三戸南部側も防戦につとめましたが、南部領内の一揆に乗じて九戸勢が強大化し、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、三戸南部側は苦戦します。

『南部根元記』によれば、天正十九年三月、九戸党は一斉に蜂起して、近郊の一戸城・伝法寺城・苫辺地城などを攻撃したとあり、一戸城の一戸図書が九戸政実に与して討死したと伝え、その跡に信直方の北主馬が据えられている。さらに岩手郡においても、九戸方と三戸方との間で確執があり地頭の改易が行われている。
 九戸政実の反乱には櫛引河内・七戸彦三郎が同心し、一戸の者らが九戸に内通し三戸南部を凌ぐ勢いとなった。北主馬の急報により、三戸から実父の北信愛が一戸城に派遣され、信愛は東・上斗米・浄法寺氏を駐在させ一戸城を強化して帰還した。同じころ、九戸方の櫛引氏は苫米地城に攻撃を加え、七戸家国は六戸および出法寺城を攻撃した。かくして、三戸南部信直は九戸勢と日夜合戦におよんだが、信直旗下の旗本以外の外様の家臣らは形勢を見て出陣をしない者が多かった。九戸政実は武将としての力量も高く、その領地も三戸南部氏に拮抗するもので、多くの武士が政実方に加わった。九戸方の攻勢に対して、信直の立場は段々と苦しいものになっていた。

◆自力での鎮圧を諦める南部信直

危機打開のために開いた軍議において、自力での九戸政実討伐を諦め、秀吉に願い出てその力を借りて討伐するのが上策であると判断し、信直は息子・南部利直と重鎮・北信愛を上方に派遣、六月九日には秀吉に謁見して情勢を報告しました。

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