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あの楠木正成に「坂東一の弓取り」称された宇都宮公綱

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歴史

1302年、宇都宮貞綱の子として生まれる

鎌倉時代に皇統は持明院統(後深草天皇の系統(北朝))と大覚寺統(亀山天皇の系統(南朝))の二つに分裂(共に後嵯峨天皇から派生)し、両統による皇位争奪は、鎌倉幕府が仲裁していた。

1318年に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、源頼朝を創設者とし途中から北条氏が実権を握っていった武家政権である鎌倉幕府の打倒を目指すが失敗し、後醍醐天皇は幕府方に捕えられ、隠岐島へ流される。

公綱出陣

後醍醐天皇の反鎌倉幕府に加担した楠木正成(くすのきまさしげ)らは、後醍醐天皇が隠岐島へ流されてからも倒幕運動を継続する。

楠木正成らの倒幕運動が活発化してくると、1333年、幕府はその鎮圧のために東国から軍勢を送るようになった。

1333年、北条高時の命を受けて、公綱もこれに参加する。

鎌倉時代の宇都宮家は、関東が基盤である幕府にとって有力な軍事勢力で、地域での紛争が収まらない時は幕府軍として関東から出陣し、戦功をあげてきた。

弘安の役(モンゴル帝国による二度目の襲来)の際には、第8代当主の宇都宮貞綱(公綱の父)は6万騎を率いる総大将となっている。

決戦の地、四天王寺へ

四天王寺の合戦で楠木軍が5000騎の大軍で六波羅探題(幕府が朝廷の動きを監視するための出先機関)を撃破すると、公綱は楠木軍と戦うよう命じられて四天王寺へと向う。

公綱の出陣を知った楠木軍は、公綱の率いる軍勢がわずか500騎ほどであることから楽観視をするが

坂東一の弓矢取り

楠木正成は、自分達の大軍に負けてなお送られてくる小勢は決死の覚悟であると判断し、味方に「合戦の勝負は必ずしも軍勢の大小ではなく、大敵を見てはあざむき、小勢を見ては恐れよ。宇都宮は坂東一の弓矢取りなり。良将は戦はずして勝つ。」と言って、四天王寺を退くという判断をした。

そのため、宇都宮軍が四天王寺へ攻めかかると、楠木軍は兵を退いており、両者の衝突はなく終わる。

楠木軍が退いたことで、幕府方は宇都宮軍の行動を「さすがは宇都宮!」と賞賛して勝利を喜んだ。

しかし、楠木正成は4~5日経つと、和泉や摂津の野伏5000人ほどを集めて四天王寺周辺に篝火(かがりび)をたかせる。

この動きで宇都宮軍は大軍が攻めてくるかと緊張が走るが、一向に攻めてくる様子はなかった。

そこで宇都宮軍の精鋭部隊である紀清両党(きせいりょうとう)から「我々は先日、敵を追い散らしたから、面目は立ったはず。」という声が高まると、宇都宮軍は京都へと戻る。

宇都宮軍が四天王寺を後にすると、それに入れ替わるようにして、翌日、楠木軍が再び四天王寺を占領した。

結局、宇都宮軍と楠木軍は一戦もせず、引き分けに終わるのだが、両者共に味方に甚大な被害を出さず、また、その名声に傷を付けなかったことは、智謀深い良将の判断として評価されている。

さて、当時、勢いに乗る楠木軍であれば、強引な戦術でも公綱を破ることができたはずであるが、それをしなかったのは味方の被害を抑えるためだけではなく、倒幕後の天皇の世を確実に実現するためには、東の有力御家人達を味方に引き込む必要性を感じていたからかもしれない。

実際、幕府軍の中核的な存在だった公綱は最終的に南朝方として戦うことになっていく。

鎌倉幕府滅亡

以後も、公綱は千早城攻めなどに参戦し、倒幕軍と戦いを続けるが、幕府軍であったはずの足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都で寝返り、鎌倉でも新田義貞(にったよしさだ)の攻撃により北条高時が滅ぼされ、鎌倉幕府は滅亡した。

鎌倉幕府滅亡後に、公綱は後醍醐天皇に降伏する。

その後、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦うが敗れて降伏し、一時的に尊氏の家臣となるが、尊氏が新田義貞に大敗を喫して九州に逃れると、公綱は再び天皇のもとに帰参した。

そこから北畠顕家(きたばたけあきいえ)のもとで各地を転戦し、東国における南朝側の中心勢力の一人として後村上天皇からも厚い信任を受ける。

1356年、55歳で死去。

公綱は楠木正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能があり「新続古今和歌集」には公綱の作品が修められている。

かなり簡略化し、玄人向けではないけれど深い、歴史や伝説などを表現するブログ : 2 関東

▼外部リンク 出典元

あの楠木正成に「坂東一の弓取り」称された宇都宮公綱



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