歴史
幻の戦闘機「烈風」
烈風(れっぷう)は、日本海軍が零式艦上戦闘機(以下、零戦)の後継として試作した艦上戦闘機(のち局地戦闘機[要出典])。設計生産は三菱航空機。略符号はA7M。連合国のコードネームは「Sam」。1943年8月以前の試作名は「十七試艦上戦闘機」。試作のみで未完成のまま終戦を迎えた。
烈風は零戦の後継機として期待されながら、ついに戦うことがなかった幻の新鋭機である。
当初は十六試、後々に十七試艦上戦闘機として開発計画はスタートし、主任設計技師は零戦の生みの親、堀越二郎氏であった。
開発までの流れ
海軍は早い時期から「零戦の次」が必要であることを認識しており、零戦が実戦参加した翌年の昭和16年には三菱へ後継機の開発を内示している。ところが、当時の三菱は先年に開発したばかりの零戦の改修と、試作中の十四試局地戦闘機(のちの雷電)で手一杯だったため、とうてい応じられる状況ではなかった。
海軍側の要求
零戦の開発成功で味をしめた海軍の要求はやはり欲張ったもので「最高速度は時速630キロ以上、離陸してから高度6000mまで6分以内で到達できること、武装は20ミリ機銃と13ミリ機銃を2丁ずつ、この性能で空母で運用できること」
と三菱の技術陣の頭を抱えさせる難題でした。しかし、この当時仮想敵国であったアメリカでは次期艦上戦闘機として開発の進んでいた「コルセア」がテスト飛行で時速650キロを軽く突破しており世界レベルではむしろ標準とされる性能要求でした。
しかしそこで更に求められたのは「零戦並みの航続距離と運動性能」「毎時630km/h(340kt)以上の高速」「6000mまで6分以内の上昇力」「零戦以上の強武装」と、個々の要素はそれなりに妥当性があるとしても、総じて言ってしまえば「僕の考えた最強の艦上戦闘機」という無茶ぶりを、海軍側は三菱に割り振ってきたのだ。
まず4月16日に行われた海軍側と三菱側の打ち合わせにおいて、海軍は零戦の成功から同等の格闘性能とさらなる重武装を要求し、機動性を高めるべく低翼面過重とすることも求めた。同時に、エンジンは中島飛行機において開発が進められていた「誉」を使用するよう、強く主張していた。
三菱の対応
この要求に対し、三菱は開発不可と回答を出しました。その理由として量産の始まった空母運用タイプの零戦21型の初期トラブル対応、2号零戦(通称「零戦32型」)や局地戦闘機「雷電」の開発で設計チームが手一杯であったためでした。
しかし、堀越技師は誉の安定性に危惧を抱き、自社において開発を進めていた「ハ43」を想定していたため、両者は鋭く対立した。そして、エンジンをめぐる対立と迷走が、結果的に烈風の死命を制したのである。
海軍は日に日に悪化する戦況でエンジンのために新型機完成を待っていられない事情もあり、最終的には三菱が折れる形で「誉」エンジンの採用が決まりました。
なんとか開発へ、しかし…
零戦設計のドリームチームといえば聞こえは良いが、実際のところ、堀越技師の率いる三菱の開発チームは零戦の改良、局地戦闘機雷電の開発、そして烈風開発と三重にプロジェクトを背負っていた。三菱全体で見ればさらに一式陸上攻撃機の製造という案件さえ加わってしまう。
しかし当時の日本はまず軍隊が技術者を抱え込んでしまい、民間側の技術者層というのは非常に薄かったのである。その上で既存の艦上戦闘機の改良、新型局地戦闘機と烈風の開発を任せられた結果、主任技術者の堀越氏は結核を患い入院してしまい、これも大いに計画を遅延させることとなった。
零戦32型と雷電の初飛行が終わり、三菱の主力設計チームに一段落のついた昭和17年4月、次期主力艦上戦闘機の開発命令が内示されました。しかしその開発には前途多難な出来事が起きます。
つ目はエンジンの問題でした。海軍からの要求を達成するのにエンジンは最低でも2000馬力は必要でしたが、当時の日本では実用段階の2000馬力級エンジンは存在しませんでした。あるとすれば、中島飛行機で実用試験中の新型エンジン「誉」(陸軍では「ハ-45」と呼称)か三菱航空機が自社開発していた新型エンジン「ハ-43」しかありませんでした。採用するエンジンを巡って海軍と三菱の意見は対立し、試作1号機の初飛行は昭和19年4月にまでずれ込みました。
二つ目は設計主任であった堀越二郎技師の不在でした。零戦シリーズの改修と新型局地戦闘機「雷電」の不具合対処で過労となったため堀口技師は「烈風」設計チームから身を引く結果となり、開発遅延に拍車を掛けることとなりました。
初飛行〜またもや難題が〜
このような苦難を乗り越え相当な遅延をきたしつつも、烈風試作1号機は昭和19年4月にようやく初飛行を果たした。そしてその結果は、戦闘機と呼ぶのもためらわれるものであった。確かに操縦性、離着陸特性は非常に良好であるが、速度は零戦52型より若干優れる程度、上昇力では寧ろ劣後し、高速域での運動性は更に酷かった。
エンジンは設計チームの望まない「誉」エンジン、主任設計者の不在と設計チームは厳しい試練を与えられましたが、昭和19年4月無事初飛行を迎えました。海軍の主力戦闘機メーカーの頭脳集団だけあり、零戦に勝るとも劣らない運動性を試験飛行で披露しました。しかし、要求条件の一つでもあった最高速度は零戦21型に劣る時速520キロ、高度6000mに到達するまで10分もかかるという海軍・三菱両者にとって悪夢のような結果に終わり、試製烈風は不採用となりました。
しかし、各種審査や初飛行の後、本格的な試験飛行が始まると、その期待は完全に裏切られた。それも、最悪に近い形で。最大速度も上昇力も零戦とさして変わらないどころか、劣っていたのだ。そのような体たらくとなった最大の要因は、なんといっても誉エンジンの出力不足であり、堀越技師らの危惧は現実のものとなったのである。
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