歴史
リチャード3世とは
リチャード3世(英語: Richard III, 1452年10月2日 – 1485年8月22日)は、ヨーク朝最後のイングランド王(在位:1483年 – 1485年)。薔薇戦争の最後を飾る王である。エドワード3世の曾孫ヨーク公リチャード・プランタジネットとセシリー・ネヴィルの八男で、即位前はグロスター公に叙されていた。戦死した最後のイングランド王。
15世紀のイングランド王リチャード3世(1452~85年)の埋葬場所を探していた英レスター大の考古学調査チームは4日、中部レスターで見つかった成人男性の遺骨をDNA鑑定でリチャード3世と確認したと発表した。
彼を主人公にした漫画も出ています!
シェイクスピア「リチャード3世」より アンとリチャード3世
アンは先王ヘンリー六世のむき出しの遺骸にすがって泣いている。リチャードはこのアンを野心実現のために利用しようとする。アンは先王の息子エドワードの妃であり、義父と夫をリチャードに殺されたのだ。当然はげしい怒りのことばが投げつけられるがそんなことでひるむリチャードではない。それどころか、王と夫を殺したのはあなたが美しすぎるからだ、あなたへの愛ゆえに心ならずも殺人を犯したのだ、と口から出まかせを言う。それほど憎ければ刺し殺せと、自分の剣をアンににぎらせ、その切っ先を広げた胸に当ててみせる大芝居にアンはまんまと懐柔されリチャードの指輪を受けとる。
リチャードは刺客を雇い二人の王子、妻のアンをつぎつぎに殺害し
ではここから、史実をベースにアン・ネヴィルの生涯を振り返ってみようと思います。
アン・ネヴィル(Anne Neville, 1456年6月11日 – 1485年3月16日) は、イングランド王リチャード3世の王妃である。アンは1456年6月11日にウォリック伯リチャード・ネヴィルとアン・ボーシャン(ウォリック女伯)の末娘としてウォリック城で生まれた。彼女はその短い生涯を政治のコマとして使われることになる。
彼女は幼年時代の大部分をミドルハム城(父親の不動産の1つ)で過ごし、そしてそこで姉イザベル・ネヴィルと共にヨーク公リチャードの遺児たちと知り合う。父リチャード・ネヴィルの従弟、母アン・ボーシャンの又従弟にあたるこの少年たちが、この姉妹の運命をその後左右することになる。
シェイクスピア「リチャード3世」では、大人になってからであったかのような書きっぷりでしたが、実は違います。
二人は幼少期に顔を見合わせたことのある、いわば幼馴染のような関係であったと思われます。
ウォーリック伯爵がヨーク派についていた時、彼は下の娘アンをエドワード4世の下の息子グロースター公爵リチャードと結婚させようと画策します。
年齢差は4歳。兄と妹のような感じで遊んだこともあったのではないでしょうか。
幼いアンは父の思惑なんかも敏感に感じ取っていたかもしれません。
この人と結婚するんだ、そういう思いを胸に抱きながら彼と話すたびに頬を赤らめたり…そんなこともあったかもしれません。
彼はリヴァーズ卿リチャード・ウッドヴィルの娘であり、ランカスター派騎士ジョン・グレイ(1461年死去)の未亡人であるエリザベス・ウッドヴィルと秘密結婚を行っている。この身分違いの結婚は貴族たちからの不評を買うことになる。
彼女の父は騎士、母はフランス貴族の娘で、ベッドフォード公爵の未亡人、そしてランカスター派のヘンリー6世妃マーガレット・オブ・アンジュ―の取り巻きでありました。
彼女はランカスター派の騎士グレイ卿と結婚、2児を設けますがグレイ卿は戦死、土地はヨーク派のものとなってしまいます。我が子に土地を継がせるため、彼女はその美貌でもってヨーク派の王エドワード4世に色仕掛けでせまり、並み居る愛人たちを出し抜き、王妃の座を手に入れました。
この結婚は9月29日のミカエル祭(英語版)に公表され、フランス王ルイ11世の義妹ボナ・オブ・サヴォイとの縁組交渉を進めていたウォリック伯の面目を失わせる結果となった。フランスと良好な関係を築くために、というウォリック伯が進めていた縁談はぶち壊し!
さらに新王妃の兄弟などがわらわら出てきて、でかい顔をし始めます。
エリザベス王妃の弟と連れ子は貴族に叙爵され、妹たちは貴族と結婚させました。
ウォリック伯は我慢の限界でした。彼はとうとうヨーク派を見限り、ランカスター派に寝返ります。そして自分の娘、アンを自らの政治の駒として活用したのです。
14歳の時、アンは父親によって国王ヘンリー6世の息子の王太子エドワードと婚約させられた。…(中略)…アンとエドワードが公式に結婚式を挙げた記録はないが、恐らく1470年12月13日にフランスのアンボワーズ城で結婚していたか正式に婚約(この場合は法的には結婚したのと同じ)していた。彼女はどのような気持ちだったのでしょう。
アンには姉のイザベルがいましたが、イザベルはリチャード3世の兄クラレンス公爵と結婚していました。
姉と敵になり、今迄敵だと思っていたランカスター派のエドワード王太子との結婚…
アンは複雑な気分だったでしょう。そしてその胸には今は敵となってしまった幼馴染たちへの思いもあったかもしれません。
彼女はこの結婚により「王太子妃(プリンセス・オブ・ウェールズ)」の称号を手に入れます。
しかし彼女の運命に安寧は訪れません。
ヘンリー6世を復位させるため、マーガレットによってイングランドに派遣されていたウォリック伯は、1470年10月にこれに成功したが、その数ヶ月後にバーネットの戦いで敗れて殺された。アンは新郎と義理の母と一緒にイングランドに帰国して初めて、父親が亡くなったことを知った。またさらに、1471年5月4日のテュークスベリーの戦いにおけるエドワードの死で未亡人になった。結婚からわずか半年、彼女の夫は死に、彼女は未亡人となりました。
父も失った彼女は、頼るべき存在もないままいきなり世間に投げ出されることになります。
アンは投獄され、エドワード4世が復位します。
その後、彼女は姉の結婚相手クラレンス公爵に保護されます。
どうもこの頃、リチャードはアンとの結婚を、エドワード4世やクラレンス公に求めたようです。
アンとリチャードは小さな頃、同じ城にいた時期があります。
もし、お互いが初恋相手だったんだとしたらロマンティックですよね
いずれにしてもリチャードはアンにぞっこんだったそうです。
クラレンス公爵ジョージは、彼の妻の妹アンが彼の兄リチャードと結婚することを阻止しようとします。彼のありそうな動機は、彼の妻の相続する財産を彼の兄に分けることを望まなかったからでしょう。エドワード4世もこの結婚に反対します。クラレンスは、アンの相続を支配するため彼女の後見人として彼女を保護下に置きます。しかし、どういう状況下かわかっていませんが、アンはクラレンスの元を逃げだします。文中の彼の兄→彼の弟の間違いです。
クラレンス公の元を逃げ出した(もしくは処刑されたエドワード王太子の未亡人として追われていた)アンは、ロンドンで使用人として働くようになりました。
エドワード4世の弟グロスター公リチャードはアンを必死の思いで探しだし、そして妻にしたと言います。
アン・ネヴィルとグロスター公リチャードの結婚は、1472年7月12日にウェストミンスター寺院で行なわれ、リチャードがイングランド北部の知事に任命されたという事で、慣れ親しんだミドルハム城に新居を構えた。1473年頃、彼女らの唯一の子であるエドワードがミドルハムで生まれた。
▼外部リンク 出典元
幼馴染に夫と父を殺され…イングランド王リチャード3世妃アン・ネヴィルの波乱の生涯