歴史
うさはちまんぐうしんたくじけん!
和気 清麻呂(わけ の きよまろ、天平5年(733年) – 延暦18年2月21日(799年4月4日))は、奈良時代末期から平安時代初期の貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。
和気広虫(わけ の ひろむし、天平2年(730年) – 延暦18年1月20日(799年3月1日))は、奈良時代の女官。和気清麻呂の姉。藤野別広虫女とも称される。
従五位下葛木連戸主の妻となるが、その後死別。孝謙上皇に仕える。
道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべのけがれまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて処罰された。
「やーい! キタナマロに、セマムシ!」
*道鏡のその後*
神護景雲4年(770年)に称徳天皇が病死すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名が捕えられて土佐国に配流されている。(以上、続日本紀)
庶人として葬られたといい、龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。後謙天皇は存命中ず~っと、彼を信じていたのですね。
賛否両論、通説風説たくさんありますが、絆を感じます。
【誰よりも美しい冷泉天皇】~手紙の返事に特大のチ○コ~ – NAVER まとめ
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