Quantcast
Channel: The history 歴史
Viewing all articles
Browse latest Browse all 219

軽すぎw「歴史上の出来事を大したことない風に解説」すると面白い

$
0
0

歴史

美大に落ちて世界大戦を起こした男 アドルフ・ヒトラー

ヒトラーが画家志望の青年だったことは有名な事実で、実際ヒトラーが描いた絵は何点も世に残されている。

彼の美術に対する情熱は相当なものだったようで、当時オーストリアで名門校だったウィーン美術アカデミーを受験している。

ヒトラーにも夢見がちな青年時代があった

Photo by Photos.com / PHOTOS.com>>

ヒトラーにも夢見がちな青年時代があった

ヒトラーの絵にかける情熱は相当のものがあり、1908年から1914年の間だけで、およそ2000枚もの絵を描いた。路上で絵葉書を売って生活資金を稼いでいたともいわれる。

彼は「芸術家志望」の若者であり、大志を抱いて花の都ウィーンへとやってきた。しかしながら美術アカデミーに入学することはかなわず、更には興味を抱いた建築アカデミーへの入学も果たせなかった。その後は困窮生活を送ったとも、恩給で悠々自適の生活を送ったともいわれる。

ここまでは現代にもいる「プラプラしている若者」だったのだが、第一次世界大戦、そして混迷の戦後ドイツを生きる中で世界を震撼させる独裁者へと姿を変えていったのであった。

当時のウィーン美術アカデミーは大学などの高等教育機関ではなく職業訓練学校であり、年齢制限や学歴などの条件が緩く、実科学校を途中で放棄したヒトラーでも受験が可能であった

しかし肝心のヒトラーの試験結果は不合格であった

アドルフ・ヒトラーが描いた絵画(Adolf Hitler’s pictures?)

連続テレビ小説 「○○が来た。」 ベレンコ中尉亡命事件

1976年9月6日、北海道の函館空港に当時のソ連軍の最新鋭戦闘機・MiG-25が強行着陸し、パイロットのベレンコ・ビクトル・イワノビッチ空軍中尉(1947年生~存命中)がアメリカに亡命した事件

ベレンコ氏が亡命を決意した理由は色々と挙げられているが、有力なのは「(空軍将校たる)軍人かつパイロットとしての待遇があまりにも悪かったため」とされる

当時冷戦真っ只中であった日本には緊張が走った

当時はソビエトとの緊張が高まっており、この事件は日本に大きな衝撃を与えた。ベレンコ中尉の領空侵入は亡命目的ではあったが、仮に侵攻目的であった場合には、それを易々と許してしまっていたことになるからである。日本の防空レーダー網の脆弱性が批判され、日本の防衛能力は必要最低限にすら達していないという声が朝野からあがった。この事件を契機に日本における防衛論議の流れに変化が生じ、それまでは予算が認められなかった早期警戒機E-2Cの購入などの購入も決定された。

同地の防衛を担当する陸上自衛隊第28普通科連隊は、ソ連軍の特殊部隊がMiG-25の機体と中尉の身柄を奪還するために上陸してくることを恐れ、政府・防衛庁の承諾なしで臨戦態勢に入り、試射とは言え初めて自衛隊が本気で迎撃を行った

9月24日にアメリカ空軍のC-5輸送機で搬出されるまで何事もなく、ベレンコ機は「函館の皆さんさようなら大変ご迷惑をかけました」の横断幕とともに函館の地を去っていった

出てこいや! 「天照大神の天岩戸隠れ」

昔、天照大神が、弟の素戔鳴尊の乱暴を怒って天の岩屋へお入りになってしまわれました。世の中は真っ暗闇になり、いろいろの悪い神々が出てきて、恐ろしいことや、悲しいことが次々におこりました。

そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。

ストリップ・ショーに釣られて出てきた天照大神

何をやっても頑として引きこもりをやめようとしなかった天照大神。そこで、天宇受賣命がうつぶせにした槽の上に乗り、背をそり乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし、エロティックな動作で踊って、八百万の神々(殆どが男)を大いに楽しませた。要するに現代でいうストリップ・ショーをやったのである。すると天照大神は何事かと思わず外に身体を晒してしまった。その時、待ち構えていた天手力男神によって引き出されてしまったのである。

天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った

岩屋のなかの天照大神は何事がおきたのかと、そっと岩戸をあけて外をご覧になりました。

その時岩戸のかげで待ち構えていた天手力男神(奥社にお祀りしてある神様)が岩戸に手をかけ一気にガラガラと渾身の力を込めて、岩戸をあけてしまわれ、天照大神を岩屋からお出ししました

○○で来た ナポレオンです

ナポレオンさん…格好良い。一生ついていきます。

ナポレオンとその軍隊が、1800年5月にグラン・サン・ベルナール峠経由でアルプスを越えようとする姿を理想化して描いている。

皇帝に戴冠する前の第一統領ナポレオンがアルプス越えでイタリアに奇襲をかけたのは、1800年5月20日。

いやいや現実はこうだった?

当代随一のナポレオン研究者として知られた第3代オンズロー伯爵アーサー・ジョージは、ダヴィッドによって描かれた絵をあまりに理想化されすぎていると感じた。

そこで、『レディー・ジェーン・グレイの処刑』などで有名なポール・ドラローシュに命じてより現実的な行軍するナポレオンを描かせた。それがこのややしょぼくれた印象を与えるナポレオンの絵画である。

しかし、この絵は英雄ナポレオンのイメージ低下を狙った大英帝国のプロパガンダではないかとの見方も強い。マントを翻していたかはともかくとして、少なくともラバではなく馬に乗っていたことは間違いないと考える識者もいる。

ミヒャエル・フォン・メラス指揮下のオーストリア軍はジェノヴァのアンドレ・マッセナを包囲しており、ナポレオンはアルプス越えによって敵の裏をかこうとした

この勝利でスペインはフランスと同盟。そして、スペイン王への贈り物として、絵は、同年8月、ダヴィッド(1748~1825、50歳)によって描かれた

▼外部リンク 出典元

軽すぎw「歴史上の出来事を大したことない風に解説」すると面白い



Viewing all articles
Browse latest Browse all 219

Trending Articles