歴史
劉邦
劉 邦(りゅう ほう)は、前漢の初代皇帝(在位:前202年2月28日 – 前195年6月1日)。沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となる。その後に東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。
劉邦は楚で農民として生まれ、 一時は盗賊にまで落ちぶれたともいう。その幼少年時代のことは、よく分からない。ただ、盗賊時代を含め、性格はざっくばらんで、誰とでも親しくなり、他人の面倒をよく見る「任侠の人」だつたようだ。この性格が人をひきつけ、この人のためなら命も惜しくないと思う者が多く、劉邦に天下をとらせたのであろう。
徐州沛県で家業の農業を嫌い酒色に耽って生活をしていた。あるとき泗水の亭長となった劉邦は人夫の輸送の任に就いたが、逃亡者などが相次いだため自らも逃亡した。
ディオクレティアヌス
ダルマティア(現,ユーゴスラビア領)の貧農出身の兵士であったが,軍人として頭角を現し,カルスM.A.Carus変死後東方で軍団から皇帝に推戴され,以後20年間帝国の再建に尽力して軍人皇帝時代に終止符を打った。
朱元璋
朱 元璋は、中国の明朝の創始者であり、初代皇帝である。
元末の天暦元年(1328年)、濠州の鐘離(現在の安徽省鳳陽県)の貧農の家の末子に生まれる。
元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした(流行病で家族を失った説もある)。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ托鉢僧となり、淮河流域で勧進の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。
豊臣秀吉
豐臣 秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。三英傑の一人。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、織田家内部で勢力争いを起こし、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を臣従させ天下統一を果たした。
秀吉の出自に関して明確なことは分かっていない。父・木下弥右衛門は足軽(鉄砲足軽?)または農民、さらにはその下の階級ではなかったかとも言われておりはっきりしないが、いずれにせよ下層階級の出身であったと考えられている。『太閤素性記』によると、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なか(のちの大政所)の子として生まれた。弥右衛門の素性には諸説がある。竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名は不明としている。
田中角栄
田中 角榮は、日本の政治家。建築士。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。首相在任中には、中華人民共和国との間の日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応。日本列島改造論で一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いたことや、金脈問題への批判によって首相を辞職。さらにアメリカの航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機売込みに絡む収賄事件である「ロッキード事件」で逮捕され自民党を離党した。
高等教育を受けていないという学歴で首相まで上り詰めたことから「今太閤」と呼ばれる。「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力で知られた。新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。角栄の幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。
1933年(昭和8年)、二田高等小学校卒業。田中自身は「中央工学校」卒と明記していたが、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたこともあり、今日に至るまでこのイメージが強い。
ナポレオン・ボナパルト
ナポレオン・ボナパルトは、革命期フランスの軍人・政治家。ナポレオン1世(Napoléon Ier、在位:1804年 – 1814年、1815年)としてフランス第一帝政の皇帝にもなった。フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立し、イギリスを除くヨーロッパの大半を勢力下に置いた(ナポレオン戦争)が、最終的に敗北し失脚した。
ナポレオンは、こうしてフランス皇帝となり、ヨーロッパ全域を支配下におさめました。すべてを手に入れたように見えるでしょ。ところが、人間の欲望にはきりがない。ナポレオンはヨーロッパ最高の権力者になるのですが、言ってみれば「成り上がり者」です。古い伝統と格式を持つヨーロッパ各国の貴族から見れば、コルシカの田舎貴族にすぎない。ナポレオンは伝統と格式を手に入れたいと思った。
1810年、ナポレオンは、オーストリア皇帝の娘、ハプスブルク家の皇女マリー=ルイーズと結婚します。マリー=ルイーズ、18歳。ナポレオン、40歳です。まあ、完全な政略結婚ですね。しかし、ナポレオンには、ジョセフィーヌというれっきとした妻がいます。恋いこがれて結婚した妻ですが、こういうときには、ナポレオンは実にドライです。ジョセフィーヌには因果を含めて、円満に離婚しました。
ユスティニアヌス1世
ユスティニアヌス1世は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 – 565年)。後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。
のちに皇帝ユスティニアヌス1世となるペトルス・サッバティウスは、483年にダルダニア属州タウレシウム(現マケドニア共和国スコピエ近傍)で農民サッバティウスの子として生まれた。叔父のユスティヌスは近衛隊(Excubitores)に属しており、ユスティニアヌスを養子とし、コンスタンティノポリスへ招き寄せて養育した。このため、ユスティニアヌスは法学と神学そしてローマ史について高い知識を持っていた。
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