歴史
負の世界遺産とは
世界遺産の中でも人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件を指す。
登録基準
いわゆる「負の世界遺産」の場合、世界遺産登録基準を含むか、それのみが適用されて登録されているのが一般的である。
顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
奴隷貿易の拠点となった島
登録年
1978年
ゴレ島(ゴレとう、Île de Gorée)は、セネガルの首都ダカール沖合いの島。過去には奴隷貿易の拠点として栄え、世界遺産に登録されている。島全体がダカール市の19の行政区の一つ、ゴレ区となっている。
南北900メートル、東西300メートルの隔離されたこの島には、16世紀から19世紀にかけて、アフリカ各地から奴隷が集められました。奴隷たちはサトウキビ畑やコーヒー農園の労働者として、ゴレ島から新大陸へ輸出されたのです。
アフロ U.S. President Barack Obama looks out of a doorway that slaves departed from on Goree Island in Dakar, Senegal June 27, 2013. Obama’s trip, his second to the continent as president, will take him to … by 写真:ロイター/アフロ
オバマ米大統領、奴隷貿易で栄えたセネガル・ゴレ島訪問
2013年 06月 28日
セネガルの首都ダカールで黒人奴隷の歴史が残る負の世界遺産ゴレ島に行って来ました – GIGAZINE
ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺した強制収容所
登録年
1979年
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所である。
アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。
アウシュビッツ強制収容所に行って分かったこと、分からなかったこと – GIGAZINE
ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群
奴隷貿易の拠点となった要塞が複数含まれる。
画像はケープ・コースト城
登録年
1979年
ガーナの沿岸部には、15世紀以降西洋人が貿易のための拠点を設置した。ベナン湾一帯は、かつてゴールドコースト(黄金海岸)と呼ばれたことからも明らかなように、もとは金の輸出で栄え、のちには奴隷貿易で栄えた。
ガーナにある近世の要塞群の世界遺産登録物件。ガーナ(旧ゴールドコースト)の沿岸部には、イギリスやオランダをはじめとする西洋諸国がかつて建造した、西洋式の要塞群が多く現存する。世界遺産登録に当たっては、それら要塞群のうち、ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州に残る15世紀末から18世紀初頭に建造された11件が対象となった。ただし登録物件はセントラル州とウェスタン州にのみ点在している。なお、この物件は、日本では「ガーナのベナン湾沿いの城塞群(要塞群)」と意訳されることがある。
牢獄の遺跡などを含む
登録年
1981年
タンザニアにあるユネスコの世界遺産に登録されている物件のひとつ。キルワ・キシワニ島は中世には重要な交易地として栄えた。現在は木々に埋もれて廃墟と化した遺跡が残るのみである。
タンザニア南部のインド洋上に浮かぶ2つの小さな島、キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラにはイスラム都市国家の遺跡が残る。キルワ・キシワニは、8~15世紀に金、銀、陶器、さらに奴隷などの交易拠点として発展した。 12世紀に建てられた大モスクをはじめ、宮殿、要塞など残された建造物には、アラビアとアフリカ、中国の様式が見られる。一方、14~15世紀に栄えたとされるソンゴ・ムナラには、アラブ人居住地や5つのモスクなどの廃墟が残っている。2つの島は、スワヒリ文化、アフリカ東海岸のイスラム化、インド洋における商業・貿易を知る上で重要な考古学遺跡だ。
南米各地で略奪された先住民の財宝の積出港となった
登録年
1984年
カルタヘナの港、要塞、歴史的建造物群(カルタヘナのみなと、ようさい、れきしてきけんぞうぶつぐん)はコロンビア・ボリーバル県の港町カルタヘナに残る建造物群を対象とするUNESCOの世界遺産リスト登録物件である。かつてスペイン人から「インディアスの真珠」と称えられたほど繁栄したカルタヘナには、スペイン植民都市時代の堅牢な要塞と美しい建造物群が多く残り、いまなお「コロンビアでもっとも美しい港街のひとつ」とも言われている。
1533年に、スペイン人がコロンビア北部の半島に築いたカルタヘナは、本国に新大陸の富を送り出す港町として栄えました。しかし、海賊や英仏海軍の攻撃を受けたために、スペイン王の命令で、長さ4km、高さ12m、厚さ17m、無数の銃眼をもつ城壁が築かれました。
その過酷な労働から「人を食う山」と恐れられた銀鉱山の下で発達した町。
登録年
1987年
1545年、スペイン人により発見された銀山。セロ・リコ(スペイン語版、英語版) (Cerro Rico) とはスペイン語で豊かな丘という意味である。以後、スペイン統治下で中南米三大銀山に数えられるまでになる。しかし銀の掘削は、生き残った場合は高額の賃金が支払われるものの、強制的に集められたインディオの奴隷により行われた。一説には、800万人が犠牲になったといわれ、人を食う山として恐れられた。
標高4100mにも達する高山にあるポトシ。後ろに見える茶色の山はセロ・ロコ(豊かな丘)と呼ばれ、かつては巨大な銀山だった。1545年にここで世界最大級の銀鉱脈が発見され、侵略者であるスペイン人たちが銀を求めてここに集まった。ただし、銀を掘らされたのは奴隷化された先住民で、過酷な労働と劣悪な環境の中で数百万人が死んだと言われる。
奴隷の監視塔などが残るサトウキビ農園跡とその繁栄で築かれた建造物群が残る。
登録年
1988年
トリニダ(Trinidad, トリニダード)は、キューバ中央部サンクティ・スピリトゥス州の町。建設当初の正式名はサンティシマ・トリニダ(Villa De la Santísima Trinidad)である。砂糖取引で栄えたかつての繁栄を偲ばせる町並みは、近隣のロス・インヘニオス渓谷とともに、1988年にユネスコの世界遺産リストに登録された。
ロス・インヘニオスはアガバマ川(Rio Agabama)、カラクセイ川(Rio Caracusey)、アイ川(Rio de Ay)、タヤバ川(Rio Tayaba)などから水を調達することができる。ヨーロッパ入植者が持ちこんだ病気と、奴隷としての粗悪な扱いによる使い捨てのせいで実質的に地元の先住民が死滅してしまったため、スペイン人のプランテーション経営者たちは、サトウキビ畑や工場で働かせるために、アフリカから奴隷を連れてくるようになった。1820年にスペイン人によって奴隷制が廃止されると、奴隷を輸入することは難しくなった。しかし、19世紀の独立戦争で終止符が打たれるまでは残存しており、その時に至ってようやく多くの製糖工場が放棄されるか停止するかした。
ソロヴェツキー修道院はソ連時代に強制収容所に転用されていた歴史を持つ。
登録年
1992年
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