歴史
はじめに
カメラの語源は暗い部屋
カメラ・オブスクラ(camera obscura、ラテン語で「暗い部屋」の意味)は、素描を描くために使われた光学装置のこと。写真術発明にあたり重要な役割を果たした装置で、写真撮影用の機械を「カメラ」と呼ぶのはカメラ・オブスクラに由来する。最初に「カメラ・オブスクラ」という言葉を用いたのはヨハネス・ケプラー(1571年–1630年)とされる。
カメラの原理発見は紀元前まで遡る
カメラ・オブスクラの原理となる、ピンホールを通る光の現象については古代中国や古代ギリシャの時代から知られていた。紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて中国で活動した墨子とその集団の著書『墨子』には、光の性質や鏡について語った部分の中に、穴を通った光が倒立した像を結ぶことについて述べたとみられる文がある。一方、紀元前4世紀のギリシャの哲学者アリストテレスによるとみられる『問題集』の中には、さまざまに異なる形の隙間や穴を通った光が、どれも太陽の丸い形を地面に投影するのはなぜかという問いがある。アリストテレスのこの問いに対し、16世紀にヨハネス・ケプラーやフランチェスコ・マウロリコらがようやく回答を与えている。
17世紀のカメラ・オブスクラは写生するための道具
1839年 ダゲレオタイプのカメラが発明される(銀板写真)
ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールにより発明され、1839年8月19日にフランス学士院で発表された世界最初の実用的写真技法であり、湿板写真技法が確立するまでの間、最も普及した写真技法。銀メッキをした銅板などを感光材料として使うため、日本語では銀板写真とも呼ばれる。
ダゲレオタイプで撮ったエドガー・アラン・ポーの肖像写真(1848年)
1848年 日本にカメラが伝来
昔の文献によると、天保12年(1841年)6月1日に、はじめて日本人により写真撮影がなされた(島津斉彬を写した)とされていたため、この6月1日を「写真の日」とした。しかし、その後、この点は間違いであることが判明した(正しくは、安政4年(1857年)年9月17日であった)。ただ、いったん定めたこともあり、そのまま6月1日が「写真の日」とされている。
坂本龍馬は長時間撮影のために台に寄りかかっていた
20~30分撮影に時間がかかるので、台によりかかって固定しながら写真撮影をしている
1868年 カラー写真を紙に定着させることに成功
1868年にフランスのルイ・デュコ・デュ・オーロンはカーボンプリントに減法混色を用いることにより初めてカラー写真を紙に定着させることに成功した。この原理は現在も印刷技術に用いられている。
1891年 3色干渉によるカラー写真を開発
1891年、ルクセンブルクのガブリエル・リップマンは3色干渉によるカラー写真を開発し、この功績により1908年にノーベル物理学賞を受賞した。この技術は実用化こそされなかったものの、現在ではホログラフに応用されている。
19世紀末までに写真フィルムが普及
19世紀末までに、記録媒体として写真フィルムが普及し、コンパクトで手軽に写真が撮影できるカメラが大衆化する。
1904年 カラー乾板のオートクロームが発明される
1904年、フランスのリュミエール兄弟によって最初のカラー乾板である「オートクローム」が発明され市場に現れた。これは染色したジャガイモのデンプンで作られたスクリーン板フィルターに基づいたもので、ドイツのアグフアが1916年に染色したアラビアゴムの細粒で作られたフィルターを使用する「アグフア・ファルベン・プラッテン」を発明するまでは市場における唯一のカラー乾板だった。
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