歴史
○和歌山県串本町沖で追悼式典が開かれた
エルトゥールル号の慰霊碑に献花するアフメト・ビュレント・メリチ駐日トルコ大使
和歌山県串本町沖でトルコ軍艦「エルトゥールル号」が沈没してから125年となる16日、同町の樫野埼灯台近くにある慰霊碑前で追悼式典が開かれた。
雨の中、アフメト・ビュレント・メリチ駐日トルコ大使や田嶋勝正町長らが献花し、犠牲者に祈りをささげた。
アフメット・ビュレント・メリチ駐日トルコ大使や、遭難時に救出活動にあたった住民たちの子孫ら約100人が出席した。
○125年前の今日、日本とトルコの絆が強まった
エルトゥールル号は1890年9月16日、台風のため串本町沖で沈没。
乗組員500人以上が死亡したが、地元住民によって69人が救助されたことから、日本とトルコの友好関係のきっかけになったとされる。
メリチ大使は「友情の絆は私たちの宝物。この絆を大切に、さらに強める努力をしている」と述べた。
○トルコ軍艦「エルトゥールル号」が沈没事件
写真はオスマン帝国海軍「エルトゥールル」
現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件。
トルコに帰還する途中の9月16日夜、和歌山県の樫野崎灯台付近で台風による強風と高波の影響を受け座礁、沈没しました。
587人が犠牲となったが、住民らによって69人が救助された。
樫野崎灯台がある大島村(現在の串本町)では、生存者の保護と遺体収容のため、村を挙げて懸命に対応にあたりました。
救出された69名の乗組員は、神戸で治療を受け、その後、明治天皇の命により軍艦金剛、比叡によって、丁重にトルコへ送還されました。
このような日本国民の対応はトルコ人の心を打ったとされ、極めて痛ましい事件ではありましたが、本事件は両国の友好の原点とされています。
○トルコ政府が救助の恩返しとして、救難機を飛ばした
事故から95年後の1985年には、イラン・イラク戦争で日本人がテヘランに取り残された際、トルコ政府が救助の恩返しとして、救難機を飛ばして救出したことでも知られる。
イラクがイラン領空の全航空機を攻撃対象とする発表をしたために、テヘランにいた在留邦人250名が帰国できず孤立する恐れとなった。
海外に自衛隊機を派遣できなかった日本の代わりに、トルコ政府はトルコ航空機をイランに派遣。
215名の日本人がそれに分乗してイランを脱出した。
○トルコ人はエルトゥールル号事件を知ってる?
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125年前の友好関係が現在まで…エルトゥールル号追悼式典が開かれた