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【ヒストリア】織田信雄が進軍した伊賀「忍びの国」の栄枯盛衰(天正伊賀の乱)

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歴史

のぼうの城の作者が書いた「忍びの国」が天正伊賀の乱を秀逸に捉えている

忍びの国

天正伊賀の乱を題材とした小説である。

2009年、第30回吉川英治文学新人賞候補となった。 同年、坂ノ睦の作画によりコミカライズされた同名作品が、『ゲッサン』(小学館)にて連載された。

天正伊賀の乱は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との二度に渡る戦いの総称である。

天正7年(1579年)9月16日、織田信長の次男で、北畠具教(とものり)以下の北畠一族を殺害して伊勢の国(三重県北中部ら)を掌握した織田信雄(北畠信雄・のぶかつ)は、伊勢衆を率いて、隣国の伊賀の国(三重県西部)への進撃を開始します。信雄の1万1千の軍勢には、侍大将の日置大膳(へき・だいぜん)、長野左京亮(さきょうのすけ)、柘植三郎左衛門らがいました。

信長ですら侵攻を躊躇したのが伊賀の国だといわれています。

一方、伊賀の国では、小競り合いを繰り返していた豪族たちが、百地三太夫をはじめとする豪族からなる「十二家評定衆」の掟により、団結して伊勢衆を迎え撃ちます。掟は、「伊賀惣国一揆掟書」として明文化されており、他国のものが伊賀に侵入した際は、一体となって戦うことを定めた軍事同盟でした。

第一次天正伊賀の乱と呼ばれる天正7年の戦いで、信雄は、伊賀衆から手痛い反撃に遭い、伊勢に敗走しました。信長は激怒します。第一次天正伊賀の乱は信雄が独断で軍勢を動かしたものですが、天正9年(1581年)には、信長自らが軍令を発令。信雄をはじめ4万4千の軍勢を四方から伊賀に差し向け、伊賀の人口が半減したといわれるほどの殺戮を繰り返し、伊賀を制圧しました。

作者は新進気鋭の時代小説作家・天才「和田竜」

和田竜(わだ・りょう)

和田 竜(わだ りょう、1969年12月 – )は、日本の脚本家、小説家。

大阪府生まれ、広島県広島市育ち。
オリジナル脚本『忍ぶの城』で第29回城戸賞を受賞し、同作の小説化作品『のぼうの城』が第139回直木賞候補。

時代劇・時代小説を専門とする。

代表作はのぼうの城

和田竜の小説家デビュー作であり、第29回城戸賞(2003年)を受賞した脚本『忍ぶの城』を、映画作品を前提としたノベライズとして自ら執筆したものである。
表紙イラストはオノ・ナツメが担当している。
2008年には花咲アキラの作画によりコミカライズされた同名作品が、『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて連載された。

第139回直木賞(2008年上半期)ノミネート、2009年の第6回本屋大賞第2位。
2010年10月時点で累計発行部数70万部を突破している。

【ヒストリア】石田三成の武州・忍城攻め~真田昌幸・信繁もそこにいた~ – NAVER まとめ

村上海賊の娘だけまだ読んでない。。

早く読みたいっす。

「忍びの国」の概要

時は戦国。忍びの無門は伊賀一の腕を誇るも無類の怠け者。女房のお国に稼ぎのなさを咎められ、百文の褒美目当てに他家の伊賀者を殺める。このとき、伊賀攻略を狙う織田信雄軍と百地三太夫率いる伊賀忍び軍団との、壮絶な戦の火蓋が切って落とされた―。破天荒な人物、スリリングな謀略、迫力の戦闘。「天正伊賀の乱」を背景に、全く新しい歴史小説の到来を宣言した圧倒的快作。

嵐の大野智くんが伊賀の忍び「無門」を演じる

主役「無門」役の嵐 大野智さん

大野君のコメント「史上最強と呼ばれるほどの忍者の役なので、アクションや格闘のシーンがたくさん出てきますが、久しぶりにご一緒する中村監督の描く世界観に応えられるよう、精一杯頑張りたいと思います!」

映画『忍びの国』が2017年夏に全国東宝系で公開される。

『忍びの国』は、『のぼうの城』『村上海賊の娘』などの著書を発表している和田竜の同名小説をもとにした作品。1579年に起きた天正伊賀の乱を題材に、信長の次男・信雄が率いる織田軍と、超人的な能力を持ち、金のためだけに人を殺める伊賀の忍び軍団との戦いを描く。

映画『忍びの国』公式サイト

さぁ、ここから一気に加速して歴史を紐解いていきます。

史実は「天正伊賀の乱」(てんしょういがのらん)

天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。

織田 信長(おだ のぶなが)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。

ただし、今回は織田信長の次男・織田信雄(おだ・のぶかつ)が主な登場人物となる。

伊賀惣国一揆を、伊賀忍者と織田信長の戦いと誤解される事が多いが、戦闘に参加した者の中には忍者はもちろん地侍や農民もいた。

信長の次男 織田信雄(おだ・のぶかつ)

当時の織田家中では、信雄の失態について「三介殿(信雄)のなさる事よ」と呆れ気味に評されており、暗愚と見られていた。

無断で始めた伊賀侵攻戦で大敗した際、信長は譴責状を送って叱責したばかりではなく、一時は親子の縁を絶とうとしたと伝えられる。

北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正4年(1576年)に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。信雄は同年3月に滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。
これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。

天正7年(1579年)9月16日、信雄は信長に相談もせず独断で8,000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、2~3日で信雄軍は2,000以上もの兵を討たれ 、信雄は伊勢へ逃げ帰った。信雄軍は重臣の柘植保重(1,500人を率いていた)を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。

信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄を叱責した。信長が信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと思われる。また、この信雄の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。

しかし信長はこの頃本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。

このころ織田信長は伊勢よりも本願寺顕如・一向一揆が悩みの種だった

戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。顕如は号であり、諱は光佐。

織田信長の宿敵であり、武力によって天下統一を狙う信長を仏敵とし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけ、決戦を挑む。軍事的、経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に調略によって信長包囲網を結成し、10年以上にわたって信長と激しい攻防を繰り広げた。

▼外部リンク 出典元

【ヒストリア】織田信雄が進軍した伊賀「忍びの国」の栄枯盛衰(天正伊賀の乱)



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