歴史
脆かった豊臣政権
1598年(慶長三年)、天下を統一の大偉業をなしとげた豊臣秀吉が死去しました。
豊臣政権は豊臣秀吉が織田信長に仕え、百姓の身から出世しながら集めたり降伏させた敵から抜擢した家臣が殆どで、他の戦国大名の家臣団のように何代にもわたって仕えてきた家臣達によって構成されたものではありませんでした。
・豊臣家臣は2つに分かれる!?
天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して文禄・慶長の役でも前線で戦った「武断派」
内政・経済兵站(へいたん)・宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた「文治派」
・秀吉の政治には不満が多かった!?
関が原の戦いが起きた本質的な理由は、晩年の豊臣秀吉の政治が、完全に破綻していたから、です。
戦争だ戦争だ、おおきくなるのはいいことだ、日本が統一したらヨソを攻めろ、こんな「政策」がいつまでも続くはずがありません。その結果が、朝鮮出兵の大失敗です。
秀吉の死んだ後の政治はどうやった?
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、後継ぎの秀頼が幼かったために、秀吉が指名した五大老と五奉行が話し合いによって政治を行いました。
この五大老の筆頭が徳川家康。五奉行の筆頭が石田三成です。
・家康の力が強すぎた…
徳川家康(関東に256万石)
前田利家(北陸地方・加賀など83万石)
上杉景勝(東北地方・会津120万石)
毛利輝元(中国地方に120万石)他の五大老よりも石高がずば抜けていたことからも、家康の強さは明らかです。
家康は、有力な大名と婚姻を通じて、次々に親戚関係を結び、味方を増やしていきます。対する、石田三成は、家康の動きに強い警戒心を強めていました。
・この人の死が痛かった…
ブレーキ役でもあった前田利家も1599年に亡くなってしまいます。
五大老のナンバー2であり、長老の前田利家が上手く仲裁役を果たしていたようですが、彼が亡くなるといよいよ、家康派と三成派の対立は避けられなくなっていきます。
・三成暗殺計画
武断派の大名たちは、官僚的な三成に日頃から反感を抱いており、同年には三成暗殺未遂事件まで起こしています。
三成は伏見城内の自己の屋敷に立て籠もり難を逃れたものの、家康の仲介で事件の責任を取らされることになり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる。
・関ケ原の戦いのきっかけは三成ではなかった!?
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