歴史
■まずは合戦の背景から
武田勝頼が天門山の戦いに敗れ自刃したことにより武田家が滅亡すると、・・・最も大きくぶつかり合ったのが徳川家康と北条氏政・氏直父子だった。この時真田昌幸は徳川家康に味方をし、策を巡らすことにより北条軍を撃退している。
だが徳川と北条の戦いも、家康と氏政が和睦を結んだことにより唐突に終結してしまった。
その同盟の内容は・・・
なんと、真田の領地・沼田を北条氏に割譲せよというものでした。
□昌幸に言わせると
せっかく苦労して手に入れた土地を手放す・・・??嫌だよねー
□家康にしてみれば
特に徳川家にとっては、金も人も貸して上田城を築城した挙句に、この裏切りではあまりに割に合いません。そりゃそうだ。ここは家康に同情します。
■そんなとき、挑発に乗っちゃった家康
立腹した家康は、小県の国人領主・室賀氏に昌幸暗殺を命じますが、これを見破った昌幸が逆に室賀氏を討ちました。・・・というか、昌幸の自演かもよ。
■勝因① 昌幸の狙いどおり主力は来ず
本多忠勝や井伊直政と言った主力が参加していないことから、どうも、徳川家康は豊臣秀吉の動きを警戒していたと推測でき、いわば、2軍を派遣している。
■勝因② 地元農民の結束力。跡継ぎを殺された怨みも。
真田昌幸は検地を行わなかった
○真田昌幸は、周辺の村々の住民を呼び寄せ、惣構えの内部に屋敷地を割り振って、移住させた
○真田軍が、農民・商人など「全市民」を篭城戦に参加させていた日頃から地元民を手慣づけてたってことかなあ。
■勝因③ 武田の威信も多かった?俺達一度は勝ってるし!
「三方ヶ原で一度徳川を破っているのだから今回だって勝てる」と演説したのではないか。
・・・徳川方には旧武田武士もたくさんいて、誰がどう攻めて来るかをあらかじめ知っていたのではないか。
■勝因④ 家康側は士気低め。数正ショックでテンション上がらず。
新たな軍勢を送れば、結果的に大軍で勝てたんじゃないの? と思われるところですが、この頃、三河の小大名時代からの重臣・石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔します。これが非常に大きかった。
数正の出奔を機に、徳川では軍制を一から練り直すなど、大きな転換期を迎えております。家康、気もそぞろでした。
■勝因⑤ 元は我が城。家康の油断に付け込む。
田城の築城を手伝った徳川家にとっては、縄張りまですべて把握しています。
真田家は、上杉家への防御として築城していた上田城の縄張りを、対徳川家に想定した縄張りに変更しなければなりません。一番の問題となるのは、小諸方面の東側でした。昌幸ピンチじゃん。でもここで・・・
■勝因⑥ 地形を熟知した仰天技「水攻め」
昌幸は、城の東側に点在する沼を水路でつなぎ、水堀として、軍の直進的な侵攻を阻みます。要は進軍路を誘導したのね。
あとは本丸を残すのみとなった時、真田昌幸が動きました。一気に反撃に出たのです。
敵を十分に引きつけた上で城の脇から出撃した別働隊が徳川の側面を攻撃。
すっかり油断していた徳川方は大混乱に陥り、ひとまず撤退します。
しかし、ここで突如背後に現れた真田昌幸の長男・真田信幸(関ヶ原の戦い以後に「信之」になります)率いる別働隊の奇襲を受けます。
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