歴史
姉帯兄弟と小瀧の前
姉帯兼興(あねたい かねおき)「四人張りの強弓使い」 「200余の寡兵にて28000の上方勢を翻弄し、姉帯一族の意地を見せた九戸の乱の名将」等々
姉帯兼信(あねたい かねのぶ) 「兄の策に従い、50余の寡兵で28000の上方勢に奇襲を仕掛け、480人の損害を与える」等々
小瀧の前(おたきのまえ) 「長刀の名手」「弓矢を取っては兼興にも劣らぬ程の女」「二人の猛将の首を取る」等々
馬渕川沿いからの遠景。
位置ずらしても、毎回なんでかちょっと地図の住所が違う…
先ずWikipediaの記載
姉帯氏姉帯氏(あねたいし)、三戸南部16代助政の代に分かれたとの所伝もあるが(奥南旧指録)、九戸連康の子姉帯兼実が、糠部郡姉帯村(二戸郡一戸町)を領し、郷村の在名を氏としたのに始まるとするのが通説である。
天正19年(1591年) 九戸政実の乱において姉帯城は九戸軍の最前線として、城主姉帯大学兼興と弟の五郎兼信はともに籠城して討死し、一族供に滅亡した。
系図等もあるのでご覧あれ。
南部叢書 第9冊「九戸軍談記」より抜粋私訳 「九戸政実の乱において、主君九戸政実を「私怨にかられて討って出ずに、天下の軍を引き受けて討死し後世に名を残すべき」と命懸けで諌める」
九戸城って言うぐらいだから九戸市にあるのかと勘違いしますが所在地は二戸市です。
九戸城と姉帯城の位置は下の所在地部分をクリックして貰えば地図が出ます。
(蒲生氏郷、井伊直正が率いる九戸政実討伐軍二万五千余騎が大阪を出立し、奥州へ向かって進発し)この事は四方に隠れなく、政実は早々と聞きなさって家の後見の櫛引、七戸その他の者共を招き寄せ
「さても無念な事よ。信直めが我が身の上を讒言し都より討手が下ると聞く。このような事態になると知るならば、三戸へ押し寄せ、信直親子を討ち取って、兎にも角にもなったであろう(機会)を逃したのこそが口惜しい。(この際)皆の者軍勢を催して信直親子を踏み潰してしまおうぞ。早く用意仕れ!」
としきりに怒りなさった。いずれの者もこの義に同じつつ、馬よ鞍よと太刀物具(この場合甲冑とかか)とひしめいた。
ここにまた同流(九戸一門)の侍に姉帯大学兼興という者がおり、(政実の前に)進み出でて理由を申すには「こうは仰せども承服できませぬ。最早事極まり討ち手の軍が下るのを聞いているのに、かほどの大事を差し置いて三戸へ押し寄せ、もしその間に上方勢が近寄ったならば如何に(我が軍が)猛々しくあろうとも、どのようにして対抗するおつもりなのですか!?
総じて大事を差し置き小事を扱う大将を「愚人」と申すのでございますぞ。三戸へ出て敵勢を誘き寄せ山々城々や要害に相構えて、上方勢が近づいたならば決戦して討死し、名を天下に揚げなされ。ただ侍は「命より名こそを惜しむもの」誤りなさるな!」
と無礼極まりなく(原文:はしたなくこそ)申した。
「金言耳に逆らう(※1)」と言えばよいのか、政実大いに腹を立て「誰の事を「愚人」と言うのか!!汝の分際で意見するのは慮外(平たく言うと「無礼」)である!(姿を)見るのもなまじっか腹が立つ。討ち捨ててやる!!」と太刀の柄に手を懸ける。舎弟正行(九戸正行、中野正行とも九戸実親、久慈政則、中野康実に次ぐ末弟とされる人物。何故か系図には出て来ない)が押し止め
「物(この場合刀?)に狂わせられなさったか!?兼興が申したことは皆御為にございます!討ち手が下るこの上は是非もなき次第です。天下の勢を引き受けて潔く討死致すこそ、武士の本意にございまする」と諌言を申し上げた。
傍若無人の政実も至極の道理に復したのか、額の汗を押し拭って元の座敷に直った。兼興が心(の中)で思うには「栄える身の理(盛者必衰の事だと思う)となる運命よ…腹を切ろうと思ったが…まてしばし。我に志があっても名を得た侍(達)は言う甲斐もなく打ち負け、清き白骨を散乱させる(事になる)であろうと思えば…惜しき命である」
南部叢書. 第9冊「九戸軍談記」より抜粋私訳 「弟、兼信さんと松原さんに事情を打ち明け落ち延びるよう促すも、逆に諭され皆で討死の決意を固める」
(軍議中の)五人の人々に軍の営み(準備)を内談し、自身は拠点へ立ち帰った。居城に到着次第、舎弟五郎兼信の後見として松山平太(松山平太左衛門)を近くに呼び寄せ「汝は知らぬだろうが承れ。我が君の悪逆を信直が都へ言上したためおっつけ討ち手が下ると聞いた。我等の運命はここまでである。こうなるであろうことを兼て(から)知り諌事を度々申し上げて来たが、(政実公が)承諾される事無き故に遁世(基本「出家」だがこの場合切腹だと思う)しようと思った。
だが「臣として君を諌め申さぬは、天の責めもどれだけのものかわからぬ。」と手立てを替えて、ある時は言葉を濁して申し上げ、用いる事もせずに(言上したのだが)、(政実公は)奢り昂ぶってしまって、諸民に欺きを懸けるも、御運の末にて有る間は少しも効果がなかった。
(そのため)上方勢近づけば真っ先に討死したい。御身はいずこへも立ち退き、如何なる主でも頼って能く奉公仕って我等の家をも取り立てる路を吊りよ(系図のー線の意味の隠語。要は姉帯氏の系譜を保って貰いたいと言っている)」
(横でこれを聞いていた)兼信はこれを承り、しばらく者も言わずにいたのだが、溜息をほっとついて「さて、兄上は某をよくも見限ってくれましたな。如何なるものが兄や下人の死に様を見捨てていずこの国へと落ち申すか?物の役には立たずとも真っ先に懸って討死し、三途の川の瀬踏みをするのに何か子細があるでしょうか?御身はいずこの国へも退きなされ」と苦々しく申した。
兼興はこれをみなさって「理なり。(我の考えは)間違えであった。然らば用意仕れ」
「畏まり候」と平太が一子友之丞道次が急いで人数を改めた。優れた(家臣の)平太を始めとして川又主殿、鬼淵甚兵衛、小森藤七、長根甚八、椛木八兵衛、中村宗順、戸田帯刀、一騎当千の者八十人、都合百三十人が名を連ねた。
さてまた兼興の妻女の小瀧の前と申す者は、生年二十一歳、顔は極めて柔和であって弓矢を取っては兼興にも劣らぬ程の女なり。これも物具を聢(しか =しっかり)としめ、朽葉色の小袖をさっと懸けて長刀をかい込みにっこと笑い(兼興のいる座敷に)進み出た。平太の女房の小屋野も歳を積んで四十五歳、これも物具を指し堅め樫の棒を引っ提げ続いて座敷に進み出た。兼興は軍兵に向かい「如何に方々(から)上方勢が下るとも、この辺りに我々が居るとは夢にも思わないであろう。定めて長途(ちょうと =遠い道程)の事であるから、一戸の辺りにて人馬を休めて(九戸城攻めの)用意をするであろう。(姉帯城のある小鳥谷の辺りは)素肌にて通るに違いない。
兼信は五十人を引き連れて美濃木沢(今の一戸町小鳥谷古屋敷付近。姉帯城から平糠川沿いを4~5㎞南)に待ち伏せし、先手の勢を打ちひしぎ時を稼いで引き返せ。上方勢が怒りをなして追い来る所を川を堰き止め置き、上方勢が懸け入ったならば人夫をもって切り流し、溺れて(川から)上がる者が居たならば弓鉄砲にて討ち立てよ。
(その)後に続いて大勢が渡って来たならば又よわよわと引き返せ。(上方勢は兵に)息をもつかせずに追わせるだろう。
汝等の勇力はいつの為(に使うもの)だ?(美濃木沢等の)上の方の山へ大石、大木を揃え置いて引っ懸け引っ懸け打倒せ。退き遅れた者が見えたならば打物抜いて切り捨てよ。(上方勢に)敵わぬ節が見えるならば城に火をかけて腹を切ろう。いずれもその旨心得よ」
「畏まり候」と(姉帯勢は)寄せ来る敵を今や今やと待ち構えていた。
一応作戦予想w一応姉帯軍の手勢は総勢200人(図で動いてる部隊はその内の兼信隊50人)。蒲生氏郷率いる上方勢は総勢28000で十三段構え。
文献に書かれてる地名と地理を考えるに、だいたいこのような形ではないかと。(相変わらず地図下手ですいません(泣)もうちょい上手く書けないもんかと試案中です。)
まだ先の九戸城への攻撃の為、行軍中で武装してない上方勢が、旧奥州街道の隘路である美濃木澤付近(未だにグーグルマップでも見れないw)に差し掛かったところで、待ち受けていた50人程の手勢の兼信隊が奇襲を仕掛け、打撃を与えて姉帯城に撤退。
地名の美濃木沢は現在は名称として残ってないようなのですが、道地の向かい辺りだと言われています。
具足をつけていないところに兼信隊の伏兵を喰らい、武具を装着して追って来た蒲生氏率いる上方勢を、街道と川との高低差がそんなにない姉帯城沿いの馬渕川まで誘い込み、身軽さが無くなったところを上流の堰を切って水攻め。
なおも向かって来る敵兵には弓鉄砲で応戦、近づいて来たところを再び大岩大木落としで攻撃。
で、旗色が悪くなったら城に籠って最期まで抗戦。
ってな感じかと思います。
対して「九戸の乱」鎮圧に向かう蒲生勢13段の布陣。
Wikipedia蒲生氏郷の記載
▼外部リンク 出典元
【戦国】マイナーだけどスゴイ!地域では著名な戦国武将まとめ16 猛将?編⑥