歴史
スーダン・南スーダンの位置
スーダンとはもともと「黒人たちの土地」という意味で、サハラ以南のアフリカのことを指していた。
東から順に、ソマリア、エチオピア、スーダンと並んでいる。現在スーダンと呼ばれている国があるのは、アフリカの角地域の奥部である。
非アラブ系の民族は主として定住農家で、アラブ系は遊牧民的な牧者だった
北部(現在のスーダン)は、もともと遊牧民族が多く、主にアラブ系スーダン人(アラブ人とスーダン原住民の混血)やフール人、ヌビア人などがいた。
南部(現在の南スーダン)は、ナイル川の水源地帯が広がっており、さまざまな民族が定住していた。豊かな土地であり、大規模な政治的共同体をつくらなくてもよかった。
多くの民族が、水源に沿って定住生活を営んでいた南スーダン。
奴隷取引を禁止したエジプト
1819年にエジプトのムハンマド・アリーがスーダンを支配下に置くと、奴隷交易を禁止した。
結果、奴隷交易で力をつけていた有力者が、勢力を削がれることになり、反発した。一方アラブ系遊牧民にとっては平和な時代を迎えることになった。
イギリスにのっとられたエジプト
フランスと共同で始めたスエズ運河事業が完成したころ、エジプトは負債が大きくなっていた。エジプトは、スエズ運河の莫大な借金の金利が返せない状況に追い込まれた。その共同事業者であるフランスが普仏戦争に敗れたため、フランスの支援を得ることもできなくなったエジプトは、やむなくスエズ運河の株式を英国政府に売却する。
普仏戦争とユダヤ人とスエズ運河の歴史 – NAVER まとめ
イギリスに従属していくエジプト19世紀末になっていくと、エジプトは最も期待された収入源であるスエズ運河をイギリスに渡し、政治・財政をイギリスに握られてしまうことになる。財務部門にはイギリスの顧問団が置かれ、ほとんどの財政判断にはイギリスが拒否権を持った。(実質的な植民地状態となった)
マフディーの反乱
重税を課されるようになったスーダンは、エジプトへの不満を強めていった。
1881年、スーダンの有力者らの支持を得たムハンマド・アフマドは自らをマフディーと称してエジプトに対して反乱を起こし、善戦し始めた。
イギリスは、スーダンの土地について強い関心がなかった。当時、めぼしい資源がないと思われていたスーダンに対し、イギリスは強い興味を持っていなかった。
エジプト政府内部にあった英国顧問団は、すでに統治能力を失っていたエジプトによる部隊の派遣を黙認。部隊は最弱、給与は支払われず、訓練はなされず、そして兵士たちは上官よりも敵に対して仲間意識があったという。
スーダンに興味はなかったが、イギリスとヨーロッパ列強は、内乱の拡大を懸念したイギリスは、エジプトにスーダンをあきらめさせ、何らかの形でマフディーに統治させる形で決着しようともくろんだ。
近代における最初のスーダン独立は、結局、マフディーの勝利に終わった。
エジプト・イギリス軍は表面的には敗北した。
領有権問題を作り出したイギリス
事実上スーダンを独立させながら、エジプトによる領有権だけは主張させる」という状態を作った。イギリスは表面的にはエジプトに協力したが、軍事的にはスーダンの独立を事実上容認し、実は支援は消極的だった。
領有権問題を残しながら独立させることで、いつでも必要なときに戦争のきっかけを作ることができるようにするというのは、英国の伝統的な対外支配のテクニックである。
この問題は、現代まで続く混乱を引き起こすことになる。
イギリスのスーダン再征服
カイロからケープタウンまでの鉄道用電線を敷設するセシル・ローズの風刺画
1880年代に列強によるアフリカ分割がはじまると、
スーダンはイギリスの縦断政策とフランスの横断政策の交点となる。
スーダンはすぐに列強の紛争の真っただ中に置かれた。
スーダンは、東西方向へ領有範囲を拡大するフランスと、南北縦断しようとするイギリスの交差点となった。
最終的にはフランスが妥協するものの、イギリスがスーダンを再征服する口実を作り出すことになる。
英埃領スーダン
1899年から1956年までの間、イギリスとエジプト(エジプト王国)はスーダンを共同統治領とした。
一方的な支配に不満を募らせるスーダン
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