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【典韋・張飛・呂蒙…】残酷な死を迎えた三國志の漢たち

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歴史

典韋

張繍が謀反を起こすと、曹操を逃がすべく部下達とともに戦った。典韋が守っていた陣門には敵が侵入できなかったが、敵は他の門から陣に侵入した。典韋と十数人の部下が多数の敵に囲まれたが、典韋は鉄戟を一振りし、敵の十数本の矛を砕いた。多くの箇所に傷を負った典韋は、敵に突進し数人を殺してから、目を怒らせて口をあけ、大声で罵りながら死んだ。典韋の首や身体を、敵は全員で見物したという。

史実

張繍反乱の際には、張繍軍の胡車児に酒で酔わされた隙に武器を奪われたため、敵の武器を奪って戦うが、敵の弓兵の一斉射撃を全身に浴び、直立不動のまま息絶えたことにされている。

演技

荀彧

曹操が濡須まで軍を進めようとした時、病気となり寿春に残留した。そのまま憂悶の内に死去した。50歳であった。諡は敬侯。

この死には謎が多く、自殺とも言われる。『魏氏春秋』では、曹操から贈られた食物が空っぽの器だった為、その意図を「お前はもう用済みだ」と解釈した荀彧は服毒自殺した、とある。また、『献帝春秋』では、かつて董承が殺害されたとき、伏完から曹操への反乱を仄めかす手紙を送られた事を長期間黙秘しており、それが発覚する事を恐れて自己弁明紛いの告発をした為、曹操から疎まれた事が遠因であるともいう。

張飛

張飛は士大夫と呼ばれる知識人層には紳士的に振るまったものの、身分の低い者、兵卒などは軽視していた。しかも、治める場所では厳罰を適用し、しばしば死刑にした。それでいて、当り散らしたりなどした当の兵士を側に仕えさせるなど、警戒心も完全に欠いていた。

劉備が呉に対して侵攻することになると、張飛は1万の兵士を率いて閬中を出発し、江州で劉備と合流することになった。その準備をしている最中である同年6月、恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。劉備はかねてより張飛が刑罰を頻繁に行ない、さらにその部下を自分の近侍として仕えさせていることを戒めていたといい、この時張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。

孫策

于吉の幻に悩まされ、しばらくノイローゼ状態になっていた。そして、刺客によって負った顔の傷の具合を見るために、鏡を覗いたら、自分ではなく于吉が映ったとある。孫策は大声をあげて鏡を殴りつけたが、直後傷口が広がり、息絶えた。

呂蒙

219年の樊城の戦いの後、敗走した関羽は孫権軍に退路を阻まれ、捕えられて斬首に処せられました。

この後の祝宴で、呂蒙は第一の功労者として盃を授けられますが、突然それを叩きつけると、孫権の胸倉をつかみ、「わしが誰かわかるか」と言った後、「我こそは関雲長なり」と叫びます。

呂蒙はそのまま床に倒れこみ、七つの穴から血を噴き出して死んでしまうのです。

公孫淵

巨漢に握り潰される。

馬元義

出典i.gbc.tw

張角の腹心として洛陽に潜伏し、宦官を抱きこんで内部から撹乱する予定だったが、馬元義の部下で潜伏に同行していた唐周が裏切って密告したことで計画が露見し、首謀者として捕らえられた馬元義は車裂きで処刑され、連座した官民が千人ほど斬首となった。

董卓

初平3年(192年)4月、董卓は献帝の快気祝いのために、未央宮に呼び出された。呂布は詔を懐に忍ばせて、同郷の騎都尉である李粛と共に、自らの手兵に衛士の格好をさせて董卓が来るのを待ち受けた。董卓は李粛らに入門を阻止され、怒って呂布を呼び出そうとした。呂布は詔と称して董卓を殺害した。

董氏一族の遺体は集められて火をつけられた。董卓は平素からかなり肥満していたが、折りしも暑い日照りのために死体からは脂が地に流れだしていた。そのことから夜営の兵が戯れに董卓のへそに灯心を挿したが、火はなお数日間燃えていたという(『英雄記』)。長安の士人や庶民は、董卓の死を皆で喜んだ。

▼外部リンク 出典元

【典韋・張飛・呂蒙…】残酷な死を迎えた三國志の漢たち



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