歴史
【農業の始まり】
テル・アブ・フレイラ(Tell Abu Hureyra、アラビア語:تل أبو هريرة)は古代のレバント東部・メソポタミア西部にあった考古遺跡。今から11,000年以上前に穀物を栽培した跡が見られ、現在のところ人類最古の農業の例となっている。
集落は少数の円形の住居から構成され、木や小枝等で作られていたと考えられる。人口は最大で100人から200人であった。この時期、食料は野生動物の狩猟、魚釣り、野生植物の採集で得ていた。住居の地下には食物が蓄えられていた。最古の農耕跡ですが、はじめは狩猟採集生活をしていたようです。
一方、11,050年前のライムギの耕作・栽培の証拠がこの遺跡から検出された。この時期は、最終氷期が終わり温暖化に向かっていた気候が再び急激な寒冷化を迎えたヤンガードリアスという寒冷期の始まりにあたり、この地域の気候の乾燥化によって野生動物や野生のムギ類が減少し、採集に依存していた人々は食糧確保のために農耕を始めたとされている。そして600年ほど放棄されたあと再び集落は大きく発展します。当時の農耕は略奪農業と言い、何度も同じ畑で生産し、土の栄養がなくなったら別の場所に行くという方法で行っていました。農耕をしていてもずっと同じ場所で暮らしていたわけではないようです。
また家畜を集めて飼育することも始まった。今から7300年前には土器が使われ始め、機織りもその少し前に始まった。この集落は今から7000年ほど前、紀元前5900年から5800年頃に放棄されたと考えられる。農耕が始まったのは現在(1950年)から約11000年前ですが、土器の使用は約7300年前と3000年以上の差があります。これには、遊牧を行う移動生活者にとって割れやすい土器は馴染まなかったとする説や、紀元前約11000年に最古の土器を作った日本から伝わったとする説もあります。
エリコは、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれる。海抜マイナス250mの低地にある。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、人々が住み着いた。
写真はテル・エッ・スルタン。
初期の痕跡はテル・エッ・スルタンにあり、紀元前約1万年前~前9000年前まで遡る。テルは丘を意味するアラビア語で、人間の長期にわたる営みの積み重ねによって形成されたものと考えられている。丘の規模は南北350m・東西150m・高さ2.5mである。氷河期の終りにオアシスを見つけてキャンプを始めたのがこの集落の始まりのようです。最盛期には泥と葦で作られた70戸もの住居があったとか。
古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。世界最古の町と評されることもある。集落の周りに壁を作ったのは洪水対策のためだとされています。
アナトリア地方南部、現在のトルコ共和国、コンヤ市[1]の南東数十km、コンヤ平原に広がる小麦畑をみおろす高台に位置する新石器時代から金石併用時代の遺跡である。その最下層は、紀元前7500年にさかのぼると考えられ、遺跡の規模や複雑な構造から世界最古の都市遺跡と称されることもある。
チャタル・ヒュユクの遺丘は、チュルサンバ (Çarsamba)・チャイ川の旧河床を挟んで東西にあって、東側は、長径500m、短径300m、高さ20m弱の卵形で西側に比べて規模が大きい。うち新石器時代の文化層は15mに達し、14層の文化層が確認されている。年代的には放射性炭素年代測定で紀元前6850年から同6300年にあたる時期のもので、チャタル・ヒュユクの本体である。
ふつう、居住区というものは、家々が並び、その間を道路が通る。ところが、チャタル ヒュユクには道が一本もない。ウソのような話だが本当だ。もちろん、理由はある。面積効率はいいし、防衛という点ではピカ一。では、どうやって、家々を行き来したのか?屋根が道路だったのである。古代人の知恵もなかなか侮りがたい。
頭蓋骨が集落のまったく別の場所で発見されることからそれらの遺体の頭蓋骨は、儀礼に用いられたと考えられている。頭蓋骨の中には、漆喰と黄土色の絵具で彩色され、人間の頭を「復元」しようとしているものもある。チャタル・ヒュユクでは彩色された壁画も見つかっていて、そこにも頭のない人物像が描かれています。メソポタミア地方周辺の広い地域で、同じような祭祀が長い間行われていたと考えられます。
イェリコやチャタル・フユクでも小規模な潅漑は行われていた可能性はあるが、サマッラ期になってようやく人々はがなりの距離わたる運河を掘り、維持する技術を身につけたのである。これらの遺跡からは小規模な灌漑により、雨水以外を利用した農業をしていたようです。
【会計の始まり】
西アジアの広い範囲の遺跡から、直径2センチ前後の幾何学形をした小型粘土製品とこれが入った直径10センチぐらいの中空の粘土製の球形容器が多数出土している。その使用目的は謎であったが、研究者は小型粘土製品を「トークン」(英語でしるしの意味)、球形容器を「ブッラ」(ラテン語で球の意味)と呼んだ。トークンとブッラは前8000年紀に始まるらしいが、最初はどこで作られたかはわからない。前4000年頃には多様化し、前3500年頃に頂点に達した。その使用目的は、ブッラの表面にトークンの押印痕があったことから、物資管理のための簿記用具ではないかと考えられるようになった。トルコ、シリア、イスラエル、ヨルダン、イラク、イランなど広範囲から発見されているようです。
【土器の始まり】
ジャルモはイラク北部キルクークの東、ザグロス山脈の山麓地帯にある遺跡。紀元前7090年から紀元前4950年に存在した、世界最古の農耕集落のひとつ。南レバントのエリコや、アナトリアのチャタル・ヒュユクのような遺跡とほぼ同時期に存在していた。広さはおよそ12,000~16,000 m²で、木立の中の海抜800mの高度にある。
遺跡は16層が検出され、住居址(し)から約200人の人口であったことが推定される。小麦、ヒツジ、ヤギなどの遺物とともに、床面を掘りくぼめた穀物の貯蔵庫とみられるものも発見され、後期にはかまども発見されている。当時は穴を掘った泥などで住居を作り、建て替えは今までの住居の上に作るというのが普通でした。そのため住居遺跡は丘になっています。遺跡名のテルやテペが丘という意味からもそれがわかります。ちなみに、この建て方は古代ローマも同じで、有名なコロッセオの地下にも別の建物があると考えられています。イタリアで地下鉄が掘れない理由でもあります。
付近から産出しない黒曜石が用いられているので、各地との交易も考えられる。木製の柄(え)にナイフを詰めて鎌(かま)としたものや石臼(いしうす)などがあるため、現在では定着農耕文化の最古のものであるとみられている。ジャルモ式彩文土器とよばれる特徴ある良質の土器が出土し、赤色磨研土器も出ている。年代的にはテル・アブ・フレイラ遺跡よりも後にできた集落跡のようです。ジャルモ遺跡でも農耕文化を示す遺物が見つかっていて、最古級の農耕集落のようです。
しかし、紀元前3000年ごろ、気候の変化によって水源を求めてチグリス・ユーフラテス河の下流平地部へと移住した。
【動物の家畜化】
テル・ハラフはハラフ文化(ハラフィアン文化)の標式遺跡である。ハラフ文化は紀元前6000年から紀元前5500年頃に北メソポタミア・シリア・アナトリアなど「肥沃な三日月地帯」で始まった有土器新石器時代(Pottery Neolithic)の文化で、テル・ハラフ遺跡も概ねこの時期(紀元前6000年から紀元前5300年頃、「ハラフ期」)に栄えており、この間に大きな中断の時期はない。
周囲は乾燥地帯であり、住民は雨水に頼り灌漑は行わない乾燥地農業(Dryland farming)を行った。エンメル麦(Emmer、二粒系コムギの一種)や二条オオムギ、亜麻などが栽培されていた。またヒツジやヤギといった家畜も飼育していた。
テル・ハラフから発見された最も有名で特徴的な陶器は「ハラフ式彩文土器」(ハラフ・ウェア)と呼ばれるもので、職人が作ったと見られ、多くは二色以上の色で動物の文様や幾何学文様が塗られている。ハラフ文化を象徴するのが彩色土器です。他ではまだ色が塗られているものがほとんどないため、芸術的感覚が発達していたのかもしれません。
メソポタミア北部のハラフ文化は、紀元前5000年頃にメソポタミア南部から広がったウバイド文化に継承され、テル・ハラフは長い間放棄された。雨水を使った農業に適していたメソポタミア地方の上流あたりや、さらに北のトルコが文化の中心になっていましたが、時代が下ると環境が変わり、下流域のウバイド文明に引き継がれます。
緑がハラフ文化、薄黄色がハッスーナ文化、紫がサーマッラー文化、濃い黄色がウバイド文化です。
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