歴史
※南北戦争の終結~ジャズ黎明期
Louis Armstrong(Tp) – “When The Saints Go Marching In”
南北戦争の終結に伴い、敗れた南軍の軍楽隊の楽器が廃品として出回った。奴隷制度からは解放されたものの、今度は職にあぶれてしまった黒人の若者たちは、これらの楽器を手にして自分たちの音楽を演奏しはじめた。そんな中、マーチ(行進曲)、ブルース、ラグタイムなどがミックスされてできあがったのが、いわゆるニューオーリンズ・ジャズである。
Lester Young(Ts), Count Basie(Pf) – “Indiana”
1910年代後半には、ストーリーヴィルの公娼街の廃止によりニューオーリンズの歓楽街は衰退し、それに伴いジャズの中心地はシカゴ、そしてカンザスシティへと移る。当時のシカゴやカンザスシティはギャングが支配する無法地帯であり、禁酒法の時代にありながら秘密酒場は大きくにぎわった。ジャズはダンスミュージックとして流行し、Lester Young(Ts)やCount Basie(Pf)など、その後のジャズの発展を担う多くのミュージシャンが育った。また、このころにビッグバンド形式が成立した。
※スウィングジャズの勃興~全盛期
Glenn Miller Orchestra – “In The Mood”
1933年の禁酒法の撤廃に伴い、ジャズミュージシャンの活躍の場は全国に広がった。また、1929年の大恐慌によってミュージシャンの賃金が大きく低下していたこともあり、それを利用してニューヨークをはじめとする大都市では大所帯のビッグバンドが編成された。Benny Goodman(Cl)、GlennMiller(Tb)、Tommy Dorsey(Tb)などの白人リーダー率いるビッグバンドがダンスミュージックとして熱狂的に支持され、ラジオを中心としたメディアに進出した。
“白人の音楽”として芸術性を高めたスウィング・ジャズは、1940年代にはBing CrosbyやFrank Sinatraなどのボーカリストをフロントに立てたバンドを中心に大流行した。しかし、変化のないスウィング・ジャズは徐々に飽きられていった。
Count Basie and his Orchestra – “Jumping at the Woodside”
その後のモダンジャズの礎となったのが、カンザスシティで活躍していたCount Baise(Pf)のビッグバンドである。禁酒法時代から栄えていたカンザスシティの酒場では、バンドは夜から早朝まで演奏し続けることを要求されたため、ベイシーバンドは少ない練習で多くの曲数をこなすためにアドリブソロを中心としたシンプルなアレンジの楽曲を量産した。後にモダンジャズの中心的人物となるCharlie Parker(As)は、幼い頃はベイシーバンドの看板ソリストであるLester Young(Ts)の演奏を酒場のドア越しに聴いていたそう。
※モダンジャズの時代
「白人中心のマンネリ的商業音楽」と化したジャズに対する反動として生まれたのが、黒人ミュージシャンたちによる「アドリブ中心」のジャズ、いわゆる「ビ・バップ」である。白人のスウィングジャズと比較すると、スウィング感(3連符)が浅くなり、裏拍はより強調されている。
Dizzy Gillespie(Tp) – “A Night In Tunisia”
モダンジャズ黎明期の立役者の一人がトランぺッターのDizzy Gillespieである。1942年に作曲された”A Night In Tunisia”(チュニジアの夜)はビバップのイコンとも言うべき曲であり、1945年作曲の”Be Bop”は音楽ジャンル名の「ビ・バップ」の語源となったとも言われている。
Gerry Mulligan(Bs) – “Bernie’s Tune”
「ビ・バップ」から派生したのが、より知的でコントロールされたジャズである「クール・ジャズ」である。この「クール・ジャズ」は、ハリウッド映画音楽のスタジオ・ミュージシャンとしてロサンゼルス周辺で活動していた白人ミュージシャンたちによって「ウェスト・コースト・ジャズ」へと発展する。
Horace Silver(Pf) – “Nutville”
ビバップの情熱を残しながら、クール・ジャズを参考にして、よりキャッチーで大衆的な方向へ進んだのが「ハード・バップ」である。LP盤の普及により1曲あたりの演奏時間が伸び、各ソリストがじっくりと構成立ててソロを演奏できるようになったことも、この時期の一つの大きな変化である。また、ラテンやアフロ・キューバン音楽の要素を取り入れたものも増え、これが後の「ラテン・ジャズ」へとつながっていく。
Lee Morgan(Tp) – “The Sidewinder”(Live)
BLUENOTEレーベルから今や”名盤”と呼ばれる作品たちが多数リリースされたのもこの時代である。1963年にリリースされたLee Morgan(Tp)の”Sidewinder”は、キャッチーで分かりやすいメロディがウケ、テレビCMでも使われるなどし、BLUENOTEレーベル創設以来の大ヒットを記録した。
※ジャズの多様化
John Coltrane(Ts) – “Impressions”
1960 年代以降になると、ジャズは大きく多様化する。その一つが、コード進行という制約から逃れスケール(音階)を中心としたアドリブを極めようという試みから生まれた「モード・ジャズ」である。
「モード・ジャズ」をさらに発展させ、限界まで制約をなくそうと努めた「フリー・ジャズ」。
Return To Forever – “Beyond The 7th Galaxy”
ロックやラテンなどとの掛け合わせによって生まれた「フュージョン」もこの時期に登場する。電子楽器や音響装置の進化もあり、多様化のスピードは一気に加速する。どうでもいいことだが、この映像が撮影された1975年の邦楽年間チャートの1位は“さくらと一郎”の『昭和枯れすゝき』。
ビバップ時代からジャズをけん引してきたMiles Davisも1960年代後半から電子楽器やエフェクターを積極的に取り入れるようになってくる。いわゆる「電化マイルス」である。
※商業的な衰退~新古典派の活躍
Kenny Garrett(As) – “Giant Steps”
1960 年代から1970 年代にかけては、ロックやR&B の台頭により、商業的な意味でジャズは冬の時代を迎えた。しかし、1980 年代に入ると、ビバップ~ハード・バップ時代の古典的なジャズの復興を目指したWynton Marsalis(Tp)、Branford Marsalis(Ts)、Kenny Garrett(As)ら「新古典派」の活躍により、再びジャズに対する評価が高まってくる。
Wynton Marsalis(Tp)は「新古典派」の中でも特に目立った存在であり、「黒人の芸術文化としてのJAZZ」という考え方を強く打ちだした人物である。クラシック奏者をも唸らせる正確無比な演奏技術と、ジャズの音楽理論に関する豊富な知識で、極めて高い評価を得ている。同時に、「ジャズにおける黒人優位」を感じさせる発言に対する反感や、計算されつくしたような演奏が「説教くさい」「スリルがない」と批判を受けるなど、風当りも強い。
※「踊れるジャズ」の復活
The wooden Glass – “We’ve Only Just Begun”
「ジャズ・ファンク」や一部のハード・バップが「踊れるジャズ」としてクラブシーンで再評価され、クラブ・ジャズ」というジャンルが認識されるようになる。スウィングジャズ以来途絶えていた「ジャズで踊る文化」の復活により、一部マニアのための音楽になりかけていたジャズが、ポップシーンに再登場することになる。
United Future Organization – “Loud Minority”
1992年にリリースされたU.F.O.の”Loud Minority”は、聞いたことのある人も多いはず。
※ビッグバンドジャズの復活
Maynard Ferguson(Tp) – “Star Trek”
1940年代のスウィング・ジャズ終焉以来あまり脚光を浴びることのなかったビッグバンドであるが、1970 年代以降、アメリカの西海岸ではハリウッドの映画音楽やテレビ音楽として、東海岸では高尚な音楽芸術の一つとして、一定の地位を得ることになる。
秋吉敏子が1973年にNYで結成したバンドは、日本古来の”和楽”の要素を取り入れ、ジャズに新たな芸術性をもたらしたとして、米国ジャズ界でも最高の栄誉である”ジャズ・マスター賞”を受賞するなど、1970年代以降のビッグバンドで最も成功したビッグバンドの一つである。
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※現代のジャズ
現代のジャズシーンにおいては、クラシック的なサウンドを取り入れたもの、複雑なコード進行を突き詰めたもの、メロディとストーリー性を追求したものなど、ジャズは様々な方向に進化を見せている。
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