歴史
三筆は日本独自の書道のスタイルを確立した
空海・嵯峨天皇・橘逸勢の三筆たるゆえんが、「奇怪な雑書体」にあり、そこに内包された「中国への異和」が「和様」へと展開していく
……中国一辺倒の擬似中国文字の段階に明らかな変化が認められるようになるのが、平安時代初期の空海、嵯峨天皇、橘逸勢の、いわゆる「三筆」からです。
彼らは唐風にならいながらも,それぞれ独自の書法を開拓し,やがて後に確立する和様への橋渡しという役割を果たすことになります。
ちなみに「三筆」と呼ばれるようになったのは江戸時代!
だいたいの日本史の専門書には弘仁・貞観文化に三筆は記載されていた。中には「後に三筆といわれた云々」という記述もあり、なかなか「三筆」の初見が見つからなかった。あるとき書道史の書物のなかで記載されていたのがあった。それがなんと江戸時代前期の1678年(延宝6年)、貝原益軒が著した「和漢名数」が初見となっていた。
空海
入唐中は求道のかたわら各種書体の研究にも意を用い,特異な飛白や雑書体をも会得して帰国した。
三教指帰の初稿本。
[「聾瞽指帰」には、]『文選』『芸文類聚』『初学記』を辞書代わりにフルにつかい、そこに『史記』『漢書』『三国志』『世説新語』『顔氏家訓』などからの語句を組み入れ、さらに儒教論では四書五経を、道教論では老荘をはじめ『准南子』『抱朴子』を駆使し、仏教論では『法華経』『金光明最勝王経』をそうとうに精読している跡が見えるのを筆頭に、ほとんど南都六宗の経典のすべてが動員されているという。
空海の青年時代に執筆した「聾瞽指帰[ろうこしいき]」には、すでに王義之[おうぎし]の書風の影響があるといわれています。
空海が書いた碑文が後世書家の間で注目されるようになったのは、雑体とも破体ともいわれる字体・書法である。かすれ書きでしかもグラフィカルに書く飛白体をふくめ、雑体・破体の書法は空海がはじめて日本にもたらしたものだが、「益田池碑銘」は現存する空海真蹟の雑体・破体の書としてとくに書家の間では珍重されている。この碑文には「鵠頭」「転星宿篆」「偃波」「芝英」「垂露」「伝信鳥」と思われる雑体のほか、篆・隷・楷・行・草の「五体」も混じっている。
空海が最澄に送った書状
嵯峨天皇
三筆のすべての特徴を持つといわれる書。
嵯峨天皇『光定戒牒』
内容は最澄の弟子の光定が、弘仁14(823)年4月4日、一乗止観院において菩薩戒を受けたことの証明書である。嵯峨天皇の書としてまぎれないもので、縦簾紙に書かれている。
書風には王羲之・欧陽詢の影響が見られる。楷書・行書・草書を交ぜて書かれている。
伝承では嵯峨天皇筆とされる。王義之の影響が大きい。
嵯峨天皇は空海、橘逸勢とともに三筆と称せられていますが、
何ともいえない優雅さと緊張感が融和していて、独特の書風で昔から好きです。
嵯峨帝の、古万葉集を選び書かせたまへる四巻『源氏物語』には、嵯峨天皇筆の『古万葉集』4巻が言及される。だが、これは紫式部の創作とも考えられている。
橘逸勢
空海らとともに入唐し学問に励んだ。唐人は橘逸勢の才を賞して橘秀才と呼んだという。……弘仁7年(816)に興福寺「南円堂銅台銘」を書き、9年に嵯峨天皇の勅を奉じて内裏12門のち北面3門の門額を揮毫したという。「伊都内親王願文」は彼の書とされている。
承和の変に連座して捕らえられ、伊豆へ流される途中没した。
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