歴史
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信仰登山の時代
白装束、草鞋履き、金剛杖、菅笠というスタイルで統一されています。
山頂付近の行列は現代の富士山っぽい?
富士講と並び人気のあった大山(神奈川県)講は現在でも行われています。 写真はまとめ主が遭遇した講社の皆さん。
大山講で使われる行衣は麓の宿坊に預けてあり、参拝登山時に着用します。
最後尾の人は今風のリュックですね・
明治時代・軍隊の登山
雪沓を履き、予備も背嚢に括り付けているのがわかります。 ちなみに三十一連隊もギリギリの状態だったため、比較的余裕のあった前半に撮った5枚の写真しか残っていないそうです。
藁で編んだ長靴で雪国の庶民の履物でした。
地方によって呼び名が異なり、雪沓、雪草鞋、深草鞋、すっぺ等と呼ばれていました。
現在では藁で立体を編む技術は途絶えつつあります。
靴
「日本の近代登山の父」ウォルター・ウェストンの案内役として大活躍。知識・技術・体力とも超一級品だったが、足元はやっぱり足袋!
当時殆ど未踏であった秘境・黒部渓谷に分け入った名ガイド、剱岳の測量でも大きな役割を果たした。
1926年の写真。足元はやっぱり足袋!
写真は大正時代の学校登山(中央アルプス・宝剣岳)の様子です。
写真左端のガイドらしき人が足袋と草鞋で足ごしらえしていますね。生徒、先生も足袋のようです。
猟師だったが登山ブームを見て一念発起、猟に使っていた道を鍬、鋤、鶴嘴で開削整備し「喜作新道」を作ってしまった偉人。
足元はやっぱり足袋!
「地下足袋の登山家」として知られる加藤も先進的な靴を取り入れるようになります。 当時の登山靴は氷雪の滑り止めのために鋲(ナーゲル)を靴底に打ち込んでいましたが、冷気を足裏に伝えてしまうため凍傷を招く原因にもなりました。
ナーゲルを打った靴は昭和30年ごろまで使用されました。
ゲートルを巻くため足首部分が折り返せるようになっているものもあります。
現在でも細々と作っている人はいるようです。
外周や踵にナーゲルが入っていますね。
鋲打ちの靴からラバーソールへ
登山靴に撃ちつけられていたナーゲルは金属製で寒気を足裏に伝えてしまうため凍傷の原因となります。 1935年に事故で友人6人を失ったイタリアの登山家ビターレ・ブラマニはこれを解決するためにラバー製のソールを考案し、1937年にタイヤメーカーのピレリの協力の下開発しました。 これが現在も登山靴のソールとして知られている「ビブラム」です。
ビブラムの創業時最初の製品にして最高傑作と言われる「モンターニュ」
今でも登山靴やワークブーツに同じブロックパターンのものが数多く使われている。
マナスル第一次遠征隊がベースキャンプまで長距離のキャラバンを行うために作られたアプローチシューズ。
佐藤久一朗が手作りで作り上げたその靴は自然と「キャラバン」の愛称で呼ばれた。 市販化の後に数度のモデルチェンジを経て1959年にナイロンアッパーの「キャラバン・スタンダード」として完成。第三次遠征隊の登頂成功により火が付いた登山ブームによって大ベストセラーとなる。高価で手入れも面倒な革の登山靴に対して、安価、ナイロン製で軽量な靴は当時の登山初心者の唯一の選択肢だった。
土踏まず部分にトリコニ―のようなスパイクがついたモデルもあった。
キャラバンシューズに対抗してオニツカタイガー(現アシックス)が販売した軽登山靴。見た目・色ともキャラバンシューズとそっくりで、普通に「キャラバンシューズ」と呼ばれていた。
1970年代後半に使用された厳冬期用の二重靴
ヨーロッパアルプスで次々と登攀記録を塗り替えた長谷川恒男の重登山靴。 皮三枚張りでかなりの重さになります。
靴職人の菅野慶治氏が製作したもの。
ウェア
写真はヨーロッパに遠征し日本人として初めてユングフラウに登頂した加賀正太郎。 現地で入手したと思われるコート、ツイード(羊毛)のジャケット、ニッカボッカ、ニッカホースに革靴。手にしているのはエルク(Jörg)のピッケル。 このスタイルを国内に伝えました。
時代を感じるがダンディーでかっこいい!
なお、現物が現存しており大町山岳博物館で観覧が可能。
利根川の改修工事にかかわった人たちの登山の様子です。
服は洋風になっていますが、足元は足袋に草鞋が普通のようですね。
大正時代に入っても富士講では昔ながらの白装束に草鞋ばき、首に数珠をかけ鈴をならしながら、六角の金剛杖を手に食糧を背負い、幅広の麦わら帽子をかぶって登山をしました。前述したように現在でもこのスタイルで登山する人がいます。
和紙に柿渋と桐油を引いて補強し防水性を持たせた合羽
写真は大正末期の学校登山(乗鞍岳)の様子。
茣蓙を巻き、足元は巻き脚絆で固めてあります。
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