歴史
戊辰戦争とは
1868年(慶応4)戊辰の年に始まり、維新政府軍と旧幕府側との間に一六か月余にわたって戦われた内戦。正月の鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、四月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に一〇月には帰順させた。翌年5月、最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ、内戦は終結、明治絶対主義国家確立への途が開かれた。
鳥羽・伏見の戦い
1868年1月27日(慶応四年1月3日)に起こった旧幕府軍および会津・桑名藩兵と、薩長軍との内戦。新政府が王政復古の大号令に続く小御所会議で徳川慶喜(よしのぶ)の辞官納地を決定したのに対し、旧幕府方が挙兵、鳥羽・伏見で薩長軍と交戦。戊辰(ぼしん)戦争の発端となったが旧幕府軍の大敗に終わり、討幕派の優勢が確立した。
幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。
西日本及び東海地方では、新政府軍と佐幕派諸藩との間ではほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。
江戸への進軍
江戸城無血開城
文久の改革後、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩主松平容保及び桑名藩主松平定敬は、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行い、尊王攘夷派・後の新政府の怨嗟を買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいてこの両藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。
奥羽越列藩同盟
仙台、米沢をはじめとした東北諸藩に、会津討伐の命が下り
「なぜ会津が朝敵なのか?先帝孝明天皇から最も厚い信頼を受けていたのは 会津ではないか!会津が賊軍などと官軍が作った偽りにすぎない!!会津は 朝敵にあらず!我らが会津を討つ道理はない!!」
と、仙台、米沢が強く反発した。これに他の東北諸藩も賛同、「ならば奥羽が一丸となって官軍と戦おうぞ!」と、団結の意を示した。その後、上野戦争を経て東北各藩に新政府軍の討伐が始まった。
会津戦争
若松城の籠城者数
5235人(病人570人、奥女中64人、婦女子575人を含む)であった。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、9月24日新政府に降伏した。
箱館戦争
こぼれ話
【5分で分る】幕末から明治維新までの流れ – NAVER まとめ
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