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徳川幕府の頂点に立った“15人の男達”の功績と人柄まとめ

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歴史

初代 徳川家康

徳川家康は「たぬきおやじ」とよく言われる。豊臣秀吉が生きている間は「秀吉さまさま」であったのに、その子の豊臣秀頼(とよとみ ひでより)には、「国家安康」の言いがかりをつけて、ほろぼしたためである。だが、子どものときに、人質として苦労してきた家康は戦争のこわさと知っていて、自分の死後、戦争のない平和な時代にしたいという気持ちから豊臣氏をほろぼした考えられる。その証拠(しょうこ)に、これ以後、260年間戦争のない平和な時代が続くことになる。徳川家康の最大の功績は、戦争のない平和な時代をつくりあげた点であろう。

二代目 徳川秀忠

徳川秀忠(とくがわ ひでただ)は、徳川家康(いえやす)の三男として生まれ1605(慶長10)年に徳川2代将軍となりました。

 秀忠が側室をもたなかったというのも有名な話。秀忠の正室は、織田信長の妹のお市の方と浅井長政との間に生まれた3女のお江という人物。このお江に秀忠は、頭が上がらなかったといわれています。とはいえ、秀忠がもし傲慢な性格であったとすれば、信長は本能寺の変で亡くなっていた訳ですので、側室も持ったでしょうし、お江との間が不仲になったとしても己の主張を貫いたことでしょう。しかし、それをやらず、妻を思いやった姿にも秀忠の堅実な性格が垣間見れます。

三代目 徳川家光

徳川家光(とくがわ いえみつ)は、徳川家康(とくがわ いえやす)と徳川秀忠(とくがわ ひでただ)がつくった江戸幕府を完成させたといえるだろう。企業(きぎょう)でも会社でもそうだが、3代目のありようが、その後を決めるという。3代目が企業や会社をつぶすということはよくあることだ。徳川家光は、土居利勝(どい としかつ)や松平信綱(まつだいら のぶつな)の有能な家臣に支えられて、江戸幕府の制度を確立させ、いっそう勢力を強化することに成功した。そして、260年に及ぶ江戸幕府による平和な時代をつくりあげた。徳川家光は、3代目としての重要な役割を責任をもってはたしたといえるだろう。

四代目 徳川家綱

徳川4代将軍。3代将軍家光の長子。幼名は竹千代、院号は厳有院。10才で将軍職を嗣ぐ。殉死を禁じ、囚人を憐む等の善政を行い、質素倹約を重んじ武芸学問を奨励した。また幼時に狩野探幽に画を学び、達磨や馬などの墨画を能くした。延宝8年(1680)歿、40才。

五代目 徳川綱吉

徳川五代将軍「綱吉(つなよし)」は『生類憐れみの令』を発布し、「犬公方」と呼ばれたことで有名です。

家庭環境はというと、綱吉の兄の家綱(いえつな)は将軍家を継ぐべく江戸城内で育てられたましたが、四男で部屋住みの綱吉は神田の御用屋敷で母、桂昌院(けいしょういん)にぴったりと寄り添われて長生きしました。

六代目 徳川家宣

徳川家宣は48歳という徳川15代の中で最も高齢で将軍に就任。
 しかし幕府の改革に意欲を燃やし、朱子学者として高名な木下順庵の弟子で、甲府藩主時代から家宣の学問の先生だった新井白石(あらいはくせき 1657~1725年)と、やはり甲府藩主時代から側近として仕えた間部詮房(まなべあきふさ 1666~1720年)を信任して政治を行います。まずは生類憐みの令の大半を廃止(捨て子・捨て牛馬の禁令は存続)。また、漢文で書かれた武家諸法度を和文に直し、体系的に整理し直します。

七代目 徳川家継

徳川家継は、徳川歴代将軍15人の中で、わずか4歳という最年少で将軍職に就いた人物だ。しかもたった7歳で霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王と婚約もした。これにより江戸時代初めて、将軍家と天皇家の縁組が実現することになった。しかし家継は生来、病弱だったこともあり、風邪を悪化させ、わずか8歳で亡くなった。これにより、幕府としては期待の大きかった、八十宮吉子内親王の降嫁は実現しなかった。家継の生没年は1709(宝永6)~1716年(正徳6年)。

八代目 徳川吉宗

紀州藩主徳川光貞の四男。幼名源六・新之助。兄の相次ぐ死により紀州藩主となり,徳川家継のあと,徳川宗家を継いだ。諸事家康への復古を唱え,武芸・学問・殖産興業を奨励(享保の改革),幕府中興の祖とされる。

九代目 徳川家重

江戸幕府九代将軍。八代将軍・吉宗の子。一七四五年(延享二)、家督をゆずられ将軍となる。生まれつき虚弱である上に、若いときから大奥で酒宴にふける生活を過ごしたために健康を害し、言語も不明瞭となって、側用人・大岡忠光のみがその言葉を理解しえたという。六〇(宝暦一〇)年、家治に家督をゆずり、翌年亡くなっている。

十代目 徳川家治

10代将軍家治は直接には政治を指導せず、この時代に権勢をふるったのは田沼意次であった。意次は600石の小身から身をおこして大名となり、側用人、ついで老中として20年間も幕政の中心にいたので、この時代を田沼時代とよんでいる。
意次は幕府の財政を救うため、大商人たちの経済力を利用してそれまでにない積極的な政策をとった。幕府直営の座を設けてと銅や鉄を専売にしたり、一般商工業者の株仲間を積極的に公認して運上・冥加金を徴収したり、俵物とよばれる海産物の増産につとめて中国に輸出するなど、幕府の収入の増大をはかった。

十一代目 徳川家斉

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