歴史
鎌倉幕府成立は1192年じゃなくて1185年根拠とされてきた1192年の征夷大将軍任命は、頼朝が朝廷から軍事権力を奪うためにあえて任命させた官位で、地位としては1190年に任命された右近衛大将よりもずっと低いものです。
1185年の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しており、同年、総大将である源頼朝が朝廷に日本全国への守護・地頭の設置を認めさせたことから、実質的な支配が頼朝に移りました。この時点から鎌倉幕府の基礎ができていたと見なされたため、今では1985年が鎌倉幕府成立と載っています。
大化の改新 → 乙巳(いっし)の変昔は645年に中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼしたことを大化の改新としていましたが、今は蘇我入鹿を始めとした蘇我氏を滅ぼす事件、つまり645年に起こった事件は乙巳の変で、翌646年に発せられた改新の詔によって始まり、650年に元号が大化から白雉に変わるまで続く政治改革こそが大化の改新であるとされている。
倭寇:日本人 → 日本人以外の人々も多くいた昔は倭冠は日本人の海賊集団であり、おもに中国や朝鮮半島の沿岸部を荒らしまわったとありましたが、倭冠とは、単に中国や朝鮮の人々がこの海賊集団を指していった言葉であり、中国や、朝鮮半島出身の人も多く含まれていたようです。
逆に十四世紀末頃において、倭寇の主力は高麗人であり、十六世紀になると、中国人が主力となっていたとか。
大和朝廷 → 大和政権(またはヤマト政権、ヤマト王権)「朝廷」とは一つの国家に対する行政組織と表現できるのですが、当時の政治権力が及ぶ範囲として現在の東北地方や中国四国地方などを含むことは到底不可能であり。例えば瀬戸内海沿岸の吉備地方には王権の象徴的存在である大規模古墳も見られるため、朝廷と表記されなくなったそうです。ヤマトとするのは奈良県の中部から南部に至るヤマト地方で古くから地域を支配していた豪族による領域支配との意味が含まれています。
日本最古の貨幣:和同開珎 → 富本銭富本銭は普通に使われるお金というより「まじない銭」(専門的には厭勝銭(ようしょうせん)という)であって、江戸時代からのものと考えられていた。しかし1999年1月19日に奈良飛鳥池遺跡で出土したため、歴史が書き換わった。最古の貨幣ではあっても、前述のようにまじない銭であるため最古の通貨とは言えないらしい。
鎖国 → 「鎖国」の記述は消える江戸時代の日本はヨーロッパに対しては閉鎖的ではあったが、長崎、対馬、薩摩などを窓口として中国、朝鮮や東南アジア諸国とのつながりは保っていたと考えられるようになったため。
平城京 →「へいじょうきょう」と「へいぜいきょう」の二つの読み仮名をふるように漢字の読み方は、呉音(ごおん)が初めに伝わり、後に漢音(かんおん)が入ってきました。「へいぜい」は漢音ですが、「へいじょう」は「じょう」が呉音。この時代は漢音と呉音を交ぜて読むことはなかったことを考えると、平城の読み方は「へいぜい」と読むのが妥当であり、のちに「へいじょう」と変化したのではないかということだ。
仁徳天皇陵 → 大仙古墳昔は日本で最も規模が大きい古墳として「仁徳(にんとく)天皇陵」と取り上げられていましたが、仁徳天皇が埋葬されているか確認されていないとして、「大仙(だいせん)古墳」などと表記されるようになりました。
慶安の御触書 → 幕府によるものではない慶安の御触書は幕府が作ったものではなく、後世の役人が作ったものが広まった可能性が高いという最近の研究を反映して、慶安の御触書の取り上げ方も変化しています。
士農工商 → 取り上げられなくなった江戸時代の身分制度とされてきましたが、農民と町人との間で序列があったわけではないという最近の研究を反映して、教科書でも取り上げられなくなっています。
源頼朝像 → 伝源頼朝像
聖徳太子像 → 伝厩戸皇子像聖徳太子や源頼朝の肖像画とされてきた絵について、昔は「聖徳太子像」「源頼朝像」とされていましたが、別人の可能性があるといわれているとして、画像の解説で断定調を避けて「~の肖像画と伝えられている」という表現に変化しています。
そもそも今は今でいう戒名である聖徳太子ではなく、厩戸(うまやど)皇子と記載されています
弥生時代のはじまりは、500年ほどさかのぼるかも知れない昔は弥生時代の始まりは紀元前3、4世紀ごろ。とされてきまたしたが、03年、国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授らが「弥生時代の始まりは紀元前10世紀」とする研究を発表し。大気や海水、生物の体に含まれる「炭素14」の変化(半減期)に着目した測定法を使用、弥生土器に付いていた煤(すす)などを調べて導き出した。このため、引用のような記述が追加されている書籍もある。
▼外部リンク 出典元
[鎌倉幕府は1185年!?] いつの間にかこんなに変わった教科書まとめ [歴史編]