歴史
なんだって!?
キューバ危機の背景で、アメリカによる沖縄への核兵器配備があった。
第二次世界大戦中の選挙で敗北し、アメリカ合衆国のフロリダのデイトナビーチでカジノを経営していたキューバ人バティスタは、1948年の総選挙でキューバ上院に復帰する。翌年大統領選挙に立候補するも、支持を得られず。
戦後、覇権を得ようとしていた米国は、そんな彼に接近する。
キューバクーデターと軍事独裁政権
1952年3月10日に、バティスタは軍事クーデターを決行、カルロス・プリオ・ソカラス大統領に辞任を要求。プリオはメキシコ大使館に亡命し、バティスタが大統領に就任、当年の選挙を無効にするという強権を発動する。
しかし、、
以前の亡命先のアメリカ政府とアメリカ企業、そしてカジノを経営していた時代のパートナーのマフィアのキューバ国内における利権の保護と引き換えに私欲を満たすようになる。
キューバの農業や工業にアメリカ資本が流れ込み、アメリカ企業による事実上の搾取が大手を振って行われる
この様な状況を受けて、オルトドクソ(保守)党から議会選挙に立候補したものの、選挙の無効により失職した弁護士のフィデル・カストロが武装勢力を組織し、1953年7月26日に130名の同志とともにオリエンテ州のモンカダ兵営に対する攻撃を行った。攻撃者の80人以上が死にカストロは逮捕され、カトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され投獄される。
1955年5月にカストロは、恩赦によって釈放され、2カ月後にメキシコに亡命、後にアメリカに移住
1956年 グランマ号事件
フィデル・カストロがチェ・ゲバラら82名が、小さな舟でキューバ再上陸を企画
本来1943年頃に製造された定員12名のディーゼルエンジン駆動のクルーザーであった。
船はメキシコのトゥスパンを1956年11月25日の深夜に出港し、定員を遥かに超える82人もの兵士が乗り込み、1週間後の12月2日にキューバへ再上陸を果たす。
カストロは事前に再上陸することを発表していたので、上陸後すぐにバティスタの政府軍に包囲され空軍の攻撃をうけると、カストロを含む18人が生き残りマエストラ山脈へ逃亡する。
バティスタ政府とのゲリラ戦を再開、民衆の支援が集まり、800人規模にまで拡大する。
革命成就
カストロの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げ、バティスタ政権は国外逃亡。
1959年1月 キューバ革命成功
首相となったカストロは、アメリカに支援を求めた
経済援助要請を申し入れたキューバのフィデル・カストロ首相は、公式会談に欠席したドワイト・D・アイゼンハワー大統領(アイゼンハワーが欠席した理由はゴルフとも言われる)に代わってリチャード・ニクソン副大統領がやってくる
ニクソンは、アメリカ傀儡政権だったバティスタ政権を打倒したカストロを非難、共産主義者であると主張した。カストロは、アメリカがカストロをあからさまに敵視し始めたことから、アメリカと冷戦下で対峙していたソ連との接触を開始する。実はこの時点ではカストロは、共産主義者ではなく、米国の権益を国有化するという考えもなかったことを後に明らかにしている。
対立する米国とキューバ
1960年6月にアメリカ合衆国の資産の国有化を開始カストロは弟をモスクワに派遣するなどしてソ連と接近
米国は、キューバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置を開始、1961年に国交断絶を通告現在もこれらの措置は解消していない。
ピッグス湾事件
1961年4月15日に、反革命傭兵軍は国籍を隠したアメリカ空軍のダグラスA-26爆撃機によりキューバ軍基地を空襲し爆撃機を破壊、続いて17日にピッグス湾への上陸を開始した。
しかし、、、大失敗
ケネディ大統領は記者会見を行い、失敗の全ての責任が計画の実行を命じた自分にあることを認める
1961年5月1日のメーデー演説で「社会主義革命であった」と正式に宣言軍事介入をうけて、カストロは米国への対立を明らかにするとともに、キューバの独立とキューバ人自身による統治を守るために、軍備増強の必要性を認識し、社会主義体制・共産党政権の東側諸国との友好関係の確立を図った。
この作戦後もアメリカ合衆国政府・ケネディ政権はカストロ政権の打倒と傀儡政権の再興を目ざして、キューバ国内へのクーデター支援・政権打倒工作、ゲリラ攻撃、カストロ暗殺工作を続け、このままではアメリカ合衆国から政権を打倒されると危機を感じたカストロは、ソビエト連邦に軍事的支援を求めた。
アフリカで起きた緊張
広島・長崎だけじゃなかった。核兵器が使用されたもう一つの戦争・ジェルボアーズ・ブルー – NAVER まとめ
フランスが、アフリカで紛争解決の手段として核兵器を使用、それまで休止していたソ連の大型水爆実験が再開される。
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