歴史
「桶」
ファラレスの雄牛
ファラリスの雄牛(ファラリスのおうし)とは、古代ギリシアで設計された拷問および処刑のための装置である。アテナイの真鍮鋳物師であったペリロスによって、シチリア島アグリジェントの僭主であったファラリスに献上された。ファラリスは死刑に新たな手法をとりいれたがっていた。それにこたえてペリロスはすべて真鍮で雄牛を鋳造し、中を空洞にして脇に扉をつけた。有罪となったものは、雄牛の中に閉じ込められ、その下で火が焚かれる。真鍮は黄金色になるまで熱せられ、中の人間を炙り殺す。
歴史叢書第9巻断片19
パラリスは、かのアッティカの青銅制作者ペリラオスをば、青銅の牡牛の中で焼き殺した人物である。というのは、この〔ペリラオスという〕男は、牡牛の装置を青銅で制作して、牛の二つの鼻孔に小笛を細工し、牡牛の横腹には戸口まで開けた。そうして、この牡牛をパラリスへの贈り物として引っ張って行く。そこでパラリスはこの人物を贈り物でもてなし、その装置は神々に献納するよう命じる。
すると、かの青銅制作者、くだんの横腹を開けるや、悪巧みに満ちし裏切者に、人非人よろしく言ってのけた、「もしもあなたさまが、パラリスよ、人間どものどいつかを処罰したいとお望みなら、この牡牛の中に閉じこめて、下に火を敷き詰めなさいまし。すれば、この牡牛、そやつの呻き声にて唸るがごとくして、さらにはあなたさまは、両鼻の穴の笛によって、その呻き声に快感を覚えられましょう」。これを知ってパラリスは、かの男がおぞましく、「いざや」と彼は言った、「ペリラオスよ、そなたが最初に手本を見せてくれ、そして笛吹きたちの真似をして、そなたの腕のほどを見せてくれ」。
得たりや応と、笛の真似をするために這いずり込むや、牡牛をパラリスは閉め、火を焚き付ける。しかし、死んでその青銅製品を汚すことなきよう、半死半生のところを引きずり出して、断崖から突き落とした。
串刺し刑
串刺しの使用は、例えば、古代エジプト、アッシリア、ペルシア帝国といった古代オリエント文明で、処刑の一形式として使われ、それは文書(粘土板、パピルス等)や彫刻によって確認できる。 古代エジプトのパピルス・アマースト(英語版)には、「ファラオのピラミッドを荒らすことに対する処罰」は極刑であるとして「串刺し刑」を意味するシンボルが記されている。
串刺しは、ヨーロッパでは中世を通じて盛んに実行された。また、同時代のアジアでも同様であった。 13世紀以降、ユーラシアに世界帝国を築いたモンゴル軍もこの方法を使用している。 ポーランド・リトアニア共和国でも、14世紀から18世紀にかけての間、串刺しは重大な内乱罪に対する伝統的な処刑方法であった。 15世紀のワラキア公ヴラド・ツェペシュは、オスマン帝国の首都コンスタンティノープルに人質として差し出されていた時代に串刺しによる殺害方法を学び、1462年に自領で覇権を握った後、これを侵略国オスマン・トルコの捕虜や自領民に対して大々的に実行するなどして、国の内外で怖れられる人物となった。
異端者のフォーク
短いベルトで首に固定された、鋭いフォークの両先端が、顎の下の肉と胸骨に突き刺さるため、手の自由を奪われた受刑者は頭を上に向けた姿勢のまま、頭を動かすことができなくなる。
しかし、急所に突き刺さる訳ではないので、通常死に至ることなく、ただ苦痛のみが増大していく。スペインの宗教裁判において許される発言はただひとつ「アビウロ」(我、間違いを撤回すと言う意味、フォークの一端に掘ってある))のみであったが、このフォークをつけられた状態でいえるはずもなく、そのまま「改悛の情が見られない」と裁定が下された。(もちろん死刑)。
この拷問具は、死刑囚を横たわらせることの無いように天井から吊されているか、代わりに括り付けられている間に、あごの下の胸骨とのどの間に置いて皮製のストラップで締め付けるようにして使用される。この拷問具を装着した人は眠りに落ちることができない。疲れから頭を下ろした瞬間に、尖った部分がのどや胸を突き刺して激しい痛みを引き起こす。このとても単純な構造の拷問具が、人々を長時間、睡眠することを妨げるのである。人々は何日も眠れないと、自白をしやすい状態になるのである。
伝統的に、フォークにはラテン語のabiuroと言う言葉(信条を取り消すと言う意味である)が刻まれている。そして、数多くの異端審問で使用された。
首輪の刑
▼外部リンク 出典元
【閲覧注意】痛くて恐ろしい「拷問と処刑」25種類【残酷注意】