歴史
江戸時代の末から明治・大正、昭和の初め頃までの話
多くの人が貧困の中で生活していた。
四谷の南側の低地に、かつてスラム(貧民窟)があった。明治のはじめから、昭和の初期あたりまでのことである。
(中略)
南元町公園が、かつて貧民がたむろして住まった地域の東端にあたる。スラムは、この公園の北西の角にある中央線ガードをくぐって北に向かう、細い道の両側に広がっていたらしい。旧地名鮫河橋谷町である。その名の通り、四谷の台地と赤坂の台地の間の谷であった。
(中略)
岩五郎が書いているのは、日清戦争がはじまる前の明治25,6年(1892,3)頃のことである。
実は、日本軍が捨てた残飯を回収し、格安で転売する残飯屋という職業がありました。明治25年、「国民新聞」記者の松原岩五郎がスラムに入り込み、残飯屋の様子などを『最暗黒の東京』にまとめています。松原は1日3回、士官学校に行って、ひとザル(およそ15貫目)50銭で残飯を引き取り、これを1貫目およそ5〜6銭ほどで販売しました。タクアンの切れ端から食パンの屑、魚の骸(あら)や焦げ飯など、膨大な量を荷車で運びました。
近年見直される「貧農史観」、しかしやはりお天道様には敵わない。
食料の尽きた人々は、草の根はもちろん、 牛馬、犬猫、死人の肉まで食べたと伝えられています。
天候不順は干ばつ(西日本)、冷害(東日本)などの形をとって定期的に農民を襲い、中世・近世を通じて「貧困」対策とは「飢饉」への対策であった。貨幣経済の中に取り込まれている貧困者の戦略として「娘身売り」は、江戸では吉原という受け皿が用意されていたこともあって、庶民の日常の中に根付いていた。
その他、江戸時代に公許の遊廓以外で遊女の集まる場所に宿場町の飯盛旅籠(めしもり はたご)や門前町などの岡場所(おかばしょ)があった。
家や親兄弟のために苦界に身を沈める娘は親孝行、と世間はみるのが普通でした。当時の日本は貧しい人が多く、カネをかせぐために娘たちが当てにされました。また、日本には室町時代から続く公娼制(女性を廓に閉じ込める管理売春)があり、親が娘を売って、受け取ったカネで生計を立てていく風景は珍しくなかったのです。
そんな中、海外に売られて行く娘たちがいた。
「からゆきさん(唐行きさん)」 とは、19世紀後半に、東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことである。唐」は、漠然と「外国」を指す言葉である。
ただ当時は”からゆきさん”という言い方はされず、醜業婦、賤業婦、密航婦、島原族、天草女などと新聞や本には出ています。娘子軍(じょうしぐん)と言われることもあります。
(中略)
からゆきさんをもじって、”ジャパゆきさん”が生まれました。
多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たち当初世論においても「娘子軍」として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際政治における日本の国勢が盛んになるにつれて、彼女らの存在は「国家の恥」であるとして非難されるようになった。
からゆきさんを多く出した長崎県の島原地方、熊本県の天草地方距離的にも、東京へ出るより上海の方が近いぐらいなのです。
女衒、仲介業者、斡旋業者
彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ピンプ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。代表的な女衒として長崎出身の村岡伊平治がいる。こうした女衒たちは貧しい農村などをまわって年頃の娘を探し、海外で奉公させるなどといって、その親に現金を渡した。女衒たちは彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得た。
日本で身体を売るより海外のほうが多く稼げると聞かされ、斡旋業者の仲介で海を渡ったのだ。「からゆきさん」となる女性たちは、家の貧しさから親に売られた娘や、奉公先を逃げ出してきた者たちだ。
明治19年(1886)生まれの島木ヨシは、天草地方の炭坑で6人の兄弟と共に育った。炭坑の不況のため、19歳の時にシンガポールに渡り、5年ほど“仕事”をした。勤務中に聞いた噂「上海の方がつとめが楽で金になる」を信じ、上海へ密航。イギリス人が経営する、外国人相手の爪磨きとマッサージを行う店に住み込んだ。
その後、マッサージ店として独立を果たし、日本人の女性2人を雇うまでになった。
1867年11月5日(慶応3年10月10日) – 1943年(昭和18年)頃?
18歳で朝頼丸で、香港に渡り、中国各地、シンガポール、カルカッタ、香港、ハノイ、台湾、東インド諸島を転々とし、宿屋、理髪店、女郎屋、行商、真珠貝採取、通訳、食堂、労務者の周旋、野菜栽培、製菓など様々な仕事、事業を経験した。
ちなみに英語のpimpも本来は「売春斡旋」の意味ですね。
からゆきさんの就業開始と労働条件
当時の金でおよそ500円ぐらい、今でいうと500万円ぐらいを本人の借金とさせた外国の貨物船の船員などとグルになって、下関や門司、長崎や口之津、あるいは神戸、横浜や清水の港などから密航させたのです。それらにかかった費用と称して、(中略)それを返すために、売られていった地でどうしても稼ぎをしなくてはならなかったのです。ちなみに、今も密入国や偽造のパスポートで日本へやってくるジャパゆきさん(男も含めて)たちは、同じ額ぐらいの手数料を払っているようです。
大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。
一泊10円、泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。
主な渡航先と評価
特に当時、アジア各国を殖民支配していた欧米の軍隊からの強い要望があった所へ多く派遣主な渡航先は、シンガポール、中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどアジア各地(中略)さらに遠くシベリア、満州、ハワイ、北米(カリフォルニアなど)、アフリカ(ザンジバルなど)に渡った日本人女性の例もある。
1894年、日本人として初めてザンジバルに訪れたのは他でもないこのからゆきさん達だったそうです。最盛期には十数人いてつい40数年前までここで暮らしていたそうです。
またこのすぐ近くには彼女達が営んでいたJapanese Barがありました。彼女達はとても友好的で地元の人々に愛されていたそうです。現在は地元の人の住居となっているそうですが当時は英国領事館の前にあったためかかなり繁盛していたらしく船員達がたくさん集まる流行のバーだったそうです。
「日本の女は従順で正直で親切だ。外人の女のように悪辣(あくらつ)な取引をしない」ロシアの青年たちが石光真清(まきよ)に言った
「日本娘は第一にあきらめが良く淡白だ。第二に金銭をむさぼらぬ。第三に盗心がない。第四に親切だ」チェーホフ
シベリア・ブラゴヴェシチェンスクにて
「絶えず笑みを浮かべている。(略)笑いながら、口ずさみながら……」サマセット・モーム
『ニールマックアダム』シンガポールにて
「目元にはにこやかな笑みが溢(あふ)れ、彼女らは部屋に入るとまず、低く頭を下げ、それから行儀良く鄭重(ていちょう)な挨拶の言葉を囁(ささや)いた」
からゆきさんが日本の近代化=軍国化に貢献した。
日清、日露の戦役のときの軍艦や大砲などの、少なくない部分がからゆきさんからの仕送りでまかなわれた、というのはあれこれの本にみかける説娼館での日常生活は、基本的に日本と同じでした。食べるものも、着るものも可能な限り日本風でした。その要求にこたえるために、いろんな商売の男たちが次々に海を渡りました。”女の財産は着物”の時代だったので、呉服屋などは有卦(うけ)に入ったのです。
▼外部リンク 出典元
【からゆきさん】海を渡っての娘身売りがあった富国強兵時代の貧困問題【慰安婦】