歴史
朝比奈茂吉を隊長とする「凌霜隊」の碑です。
藩士45名を「無届脱藩」という形で旧幕府方に参陣せしめました。
飯盛山にある「少年武士慰霊碑」の裏面には、
白虎隊全員の氏名が記されています。
飯盛山にある隊士たちの慰霊碑です。
1935年に駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフ氏が飯盛山を訪れた際、白虎隊の心に深い感銘を受け、個人的に寄贈した記念碑です。
猪苗代湖畔の戸ノ口に布陣した白虎隊が城へ戻る途中、迷いながらも
通過したとされる穴です。
白虎隊十九士の霊像を祭ってあるお堂です。
この少年が、手をかざして見つめている方向に、
会津藩の象徴、鶴ケ城(会津若松城)を望みます。
戦火につつまれた町を、こういう風に白虎隊は眺めていたのでしょうか。
階段を降りた場所こそ、19名の白虎隊士が自刃したとされる場所です。
隊士の墓石近くにある、会津藩主松平容保公の弔歌を刻んだ石碑です。
白虎隊士中一番隊唯一自刃し一命を取り留めた飯沼貞吉の墓。
白虎隊のことに関しては晩年になり重い口を開き、現在に伝わっています。
この方が一番辛い思いをしたのかもしれませんね。
飯盛山の自刃の地から眺めた会津若松城(鶴ヶ城)の画像です。
白虎隊が火災の模様を、城が落城したものと誤認してしまった風景は悲観だったでしょうね。
白虎隊士中二番隊の隊長「日向内記」の墓碑です。
維新後は会津の喜多方町に住み雑業に従事したそうです。
1868年3月、朱雀士中二番隊頭となり、同年4月18日に白虎士中二番隊頭に任命された人物。
「士中二番隊」の隊士。
酒井峰冶本人が生きている間は、白虎隊士であったなど知られることはなく、死後、仏壇の中から酒井峰冶が明治時代に書き記した『戊辰戦争実歴談』が発見されたため有名になりました。
NEWSの山下智久くんが演じた役でもあります。
年齢を偽って白虎隊に参加。
飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが、
死に切れず命を救われた唯一の生存者。
白虎隊が負傷者を抱えながら落ち延び、自決した飯盛山です。
画像は参道の入口部分です。
戊辰戦争における奥羽越列藩同盟の中心人物。
白虎隊の一番隊が護衛の任に当たった。
1928年にベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して、
元老院とローマ市民の名で寄贈記念碑。
戊辰戦争で自刃・戦死した婦女子達の霊を弔うために、昭和3年に建立された「会津藩殉難烈婦碑」です。
自決した19名の白虎隊のお墓の右横には、戦士した31名の少年達のお墓も並んでいます。
刻まれている名前をみると、切ない気持ちになりますね。
蘇生した1名を除き、自決した19名のお墓です。
福島県会津若松市一箕町八幡飯盛山にあります。
白虎隊が自刃した場所には像が建てられています。
飯盛山へと落ち延、若松城が落城したものと誤認して悲観、その結果総勢20名が自刃を決行した図です。
弾丸を撃ち込まれた会津若松城の写真です。
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