歴史
原発推進の原点
日本における原子力発電は、1954年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされている。この時の予算2億3,500万円は、ウラン235にちなんだものであった。
正力松太郎は1954年正月から読売新聞で大キャンペーン「ついに太陽をとらえた」を連載させると、3月の「原子力予算案」の可決に向けた準備に目を輝かせていた。
”核”を求めた日本 被爆国の知られざる真実(「NHKスペシャル」取材班)のまとめ 〜 本の要点まとめサイト【ブクペ】 〜
原発の父・正力松太郎
1885年(明治18年)4月11日 – 1969年(昭和44年)10月9日。日本の警察官僚、実業家、政治家。元読売新聞社社主。
1913年6月:警視庁入庁
1924年1月:讀売新聞の経営権を買収、社長に就任
1940年9月:大政翼賛会総務に就任
1945年12月:A級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに収監
1947年9月:不起訴、釈放
1952年10月:日本テレビ初代社長に就任
1955年2月:第27回衆議院議員総選挙に富山2区から出馬、当選
1957年7月:第1次岸内閣改造内閣で国務大臣(国家公安委員会委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長)に就任
当時の時代状況のなかでは、正力にとっての原子力発電は戦前の新聞に似ていた。つまり、それを手に入れれば、てっとりばやく財界と政界に影響力を持つことができる。いや、直接政治資金と派閥が手に入るという点で、新聞以上の切り札だった。
正力はアメリカの情報機関(国務省、合衆国情報局、CIA、国防総省)が第5福竜丸事件以来大変な窮地に追い込まれており、日本の反原子力・反米世論の高まりを沈静化させるために必死になっているという情報を得ていた。テレビを導入したときと同様、自分が手を挙げさえすれば、アメリカ側の強力な支援が得られ、「原子力の父」になれるという感触を得た。老新聞王はこれ以後この原子力導入という切り札を使ってなんとか総理大臣になろうと執念を燃やすのだ。
“日テレ”こと日本テレビの正式名称は、「日本テレビ放送網株式会社」。なぜ東京の一放送局の名前が「放送“網”株式会社」なのだろうか。その背景は、あまり語られる事の無い日本テレビ設立時の経緯にある。そしてそこには、アメリカとCIA、日本の保守政治家たちの影がある。
正力はメディアを一挙に手中に入れるためマイクロ波通信網を構築しようとし、アメリカも共産主義勢力に対抗するためCIAを中心として正力を応援した。正力はそれを実現するために、衆議院議員となりさらには総理大臣を目指した。
正力松太郎と渡辺恒雄がCIA工作員として、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍を創立し、その経営資金がCIAから出ている事実は、米国政府の心理戦争局の内部文書Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53に明記されている。
日本に原発をもちこんだCIA工作員 | Seetell.jp
原発問題の本質
読売新聞が社説で堂々と「核武装のための原発推進」論を展開 – Everyone says I love you !
原発推進派のホンネは「核武装」だった!? | 地球のココロ:@nifty
NEWSポストセブン|自民・石破氏 「核攻撃を受けたら核開発」発言の真意を語る
石破:それは今後の「原発」のあり方にもよるでしょう。わが国は核燃料というフロントエンドは外国に頼り、バックエンドたる核サイクルも未だ展望が見えていないため、そのような二者択一になる。だから、今までのところ「絶対に軍事利用しない」という条件の下で、IAEA(国際原子力機関)の厳格な査察を受け入れながら原発を進めてきた。日本の核抑止力が「潜在的」である所以です。
「正論」鹿児島講演会 櫻井よしこ氏が講演「原発技術は軍事面でも意味」 – MSN産経ニュース
日本でも核兵器をもつことを検討したことがあった。そしてその基礎技術は原発で培った核技術である!
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