歴史
京都の夏の風物詩 祇園祭
京都東山区にある八坂神社で行われる祭礼で、日本でも有名なお祭りの一つ古くは平安時代に疫病・災厄の除去を祈った祇園御霊会を始まりとする祭礼です。
今年は14日から16日まで前祭の宵山として、17日の巡行を前に、四条通を中心に山鉾が並びます。
”くじとらず”の「長刀鉾」
山鉾巡行で先頭を行く長刀鉾。
山鉾の中では最も早く創建された鉾で、その時期は応仁の乱以前の嘉吉元年(1441)といわれています。祇園祭において、山鉾巡行の順番は7月初旬に行われる「くじ取り式」で決定されます。
「鬮取らず(くじとらず)」とは、くじ引きを経ずあらかじめ順番が定められている鉾のこと。
そのうちの一つ、長刀鉾は古来より巡行の先頭を担ってきました。
山鉾巡行には常に先頭を行く鉾で、参加する山鉾の中で唯一「生稚児」を乗せて巡行する。長刀鉾は巡行において神域との境界を示す注連縄を斬り落とし、山鉾たちを先頭で導く役割を持っています。
注連縄切りは「鉾がこれから神域に進むことを伝える」意味があるのだそう。
18世紀のペルシア華文緞通の前懸や、中国 明時代の雲龍文綴錦の見送、中国玉取獅子文緞通の胴懸など貴重な美術品で飾られている。
その名の通り天を貫く長刀が据えられています。
刃が天皇の住まう御所や本神である八坂神社に向かないよう、南向きにつけられているそう。
大長刀は三条小鍛冶宗近が、娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したものである。長刀は疫病邪悪をはらうものとされてきました。
長刀鉾に祀られています。長刀を造っている様子。
三条小鍛冶宗近は平安時代の刀鍛冶で、その周りには不思議な逸話が数多く伝えられています。
影だけで注連縄を切ったり、長刀の影を踏んで怪我をした人がいたとか、何とも不思議な刀でした。
『演能図屏風』より「能 小鍛冶」
一条天皇より命を受けた宗近は、稲荷明神のご神体と名剣「小狐丸」を打ったとも伝えられています。
三条小鍛治宗近の打った大長刀で肩をさすると魔除けになると言い伝えられ、清祓の儀では全ての参列者も魔除けを行います。祭事の無事を祈願して毎年7月10日に行われる「清祓の儀」では、実際の刀を使って儀式が行われています。
長刀鉾の守護神、「和泉小次郎親衡」
和泉小次郎親衡は平安末期に活躍した源氏の武将。
勇猛果敢で強力無双、小舟を操り大長刀を振るって、山河を縦横無尽に駆け巡ったといわれています。
彼は八坂神社に奉納された三条小鍛冶宗近の長刀を知り、これを手に入れて愛用していました
何故か次々と怪異現象が起こるようになったため、「この長刀には神が宿っている証拠だ、それを自分が持っているのは恐れ多い」として、再び神社に返納した戦いの無常を感じた、とも。
大長刀を神社に奉納した後は何処となく消えていったといわれています。
このことから長刀鉾町では和泉小次郎親衡を守護神と崇(あが)めるようになりました。
鉾頭の長刀の根元の祠に祀られています。
長刀鉾町の守護神で、地元では「天王様」「天王さん」とも。
享保11年(1726)から飾られているそう。
大永二年(1522年)、神のお告げにより長刀鉾町でこの長刀を飾ったところ、流行していた疫病は治まった
その後、返納しようとしたら、長刀は重くなって動かなくなった。
それ以来、町内で祀るようになったと伝わる。
長刀の現在
三条小鍛冶宗近の鉾頭は室町時代に三条長吉の長刀に交換され、江戸時代に入ると和泉守来金道の長刀に交換された。
延宝3年(1675)年に和泉守来金道により作られ、実際に使用されていたもの。
会所の二階に展示されています。宵山の期間は観覧も可能(後述)
天保8年(1837)より、竹製に錫箔を押し、鍍金金具を施したものを使用している真剣はやはり重く、高く掲げると山鉾が不安定になってしまったそう。
二代歌川広重「諸国名所百景」安政6(1859)年
この頃には既に竹に漆を塗り、錫の箔を施したものが据えられていました。
現在使用されているのは2011年に新調され、プラチナ箔が施されているもの。
刃部分は長さ1.2m、幅は最大10cm。
実物は町内の宝物として秘蔵されており、実物を見ることは出来ない。その拓本は一枚だけあり、下京区松原中野町町家に扁額として保存されています。
拓本は他にも数枚とられたそうですが、この一枚を残し行方知れずとなってしまったそう。
天文(1540年前後)の頃、病気平癒をさせるために近江国へ借り出され、多くの人々を救ったそうですが、その頃の山門衆と法華宗徒の争いの中で長刀が奪い去られ、行方がわからなくなってしまったのです。
その後、祇園社に戻ってくるまでの経緯が記されています。拓本の下部に略記録が添えられています。
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