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脱亜論 まとめ 【福沢諭吉】

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歴史

平山洋氏による解説

福沢諭吉の「脱亜論」は、アジア蔑視の侵略論ではありません。

福沢は朝鮮の独立を望み、金玉均ら独立党を支援していました。
その時期の福沢に、

《彼ら朝鮮の報国の士を利用することでそこを日本の植民地にしてやろう》

などという様子はみじんも感じられないのです。

福沢は東アジアに日本と同じタイプの独立した文明国を欲していましたが、そこに植民地を望んでいたわけではなかったのです。
そしてその夢がついえてしまったとき、福沢は落胆のあまり

《もはや友人であることを望まない》

という「脱亜論」を書いたのでした。

東谷 「まず、福沢諭吉の「脱亜論」はずっと昔から知られているかと思ったら、違うんですね。」

平山 「まったく無名だったのです。1885年3月16日に「脱亜論」というタイトルの論説が時事新報紙上に出ます。しかし福沢諭吉とは署名していないわけですね。では、最初に収録されたのは何時かというと、1933年7月刊の『続福沢全集』(岩波書店)なんです。ということは、48年間、それはどこにもなかった。新聞の社説というものは普通、10日前のものでも見ることができませんから、3月16日の新聞を見た人以外は、1933年の7月まで誰も読んだことがないというものなんです。びっくりでしょう(笑)。」

東谷暁インタビュー: 平山洋 福沢諭吉「脱亜論」の真実

『表現者』 第3号(2005年11月1日発行)、 64-79頁(発行所:イプシロン出版企画/編集部西部邁事務所) に掲載された「東谷暁インタビュー: 平山洋 福沢諭吉「脱亜論」の真実」

「何が「脱亜論」を有名にしたのか」

このようにしてみると、「脱亜論」の「有名さ」が定着したのは、ほぼ一九六七年であるということができる。

「脱亜論」紹介年表

福澤諭吉の西洋理解と「脱亜論」

기록을 위한 블러그

上記「福澤諭吉の西洋理解と「脱亜論」」の韓国語訳です。

不当性の第1は「脱亜論」の影響力に関する過大な評価である。それが新聞『時事新報』の社説として発表されたことはよく知られているが、その時点では福沢の作とは認識されていなかった、ということに今永清二(1975)ら多くの研究者の目は向けられていない。「脱亜論」は1885年3月16日付紙面に無記名で発表された一評論にすぎず、その朝新聞を開いた多くの読者は、甲申事変に関して朝鮮政府中央から親日派が追放されたことに『時事新報』編集部が失望感をあらわにしたものである、としか思わなかったはずである。

私は、中国人による福沢批判の声の大きさに惑わされて、その主張にほとんど多様性がない、ということに、うかつにも気づいていなかった。彼らが独自に福沢の思想を分析し、歴史的に位置づけたうえで、福沢を批判していると思いこんでいたのだ。しかし今でははっきりこういうことができる。彼ら中国の福沢批判者は、彼の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ中国語訳されている、日本の福沢研究論文の骨子を、中国語で叫んでいるだけなのである。彼らが下敷きにしているのは、服部之総・遠山茂樹・安川寿之輔らの研究である。それ以外の、福沢を「市民的自由主義者」として肯定的に評価する丸山真男らの論文が出発点となることはない。

宮地正人氏による解説

福澤の「脱亜論」の本質は、アジアの清国・朝鮮を野蛮国と決めつけ、文明化した日本だけが西洋列強の仲間入りするという、一般論的な理解では正しくなく、自国内部の儒教主義に象徴される封建制を打破すること、その結果、自主独立できたアジアの諸国家間の連携を作り出すことが彼の本心です。

「脱亜」とは、日本、清国、朝鮮にとってお互いの反封建・国家独立の戦いそのものなのです。
このことは、福澤の「脱亜論」の中にきちんと述べられています。
朝鮮や清国の話ではなく、日本の「脱亜」の戦いなのです。

上限関係で下の者を窒息させ、身動きできないアジア的状況を破壊し、有形においては数理学を、無形においては独立心を根付かせ、育てていく革新政府を作らなければ国は滅びる、それは日本、清国、朝鮮で全く同じである、これが私の理解する「脱亜論」です。

質問者「教科書にはむしろ載せて、背景も交えて高校生達に歴史を教えるきっかけにすべきでは?」

宮地正人氏「そこまで解説できる高校の先生がいるのか?ってことなんですよね。
受験に何が出るかで毎日毎晩苦しめられているところに「脱亜論」をそれだけ説明できる余裕があるのか。
研究者の間でも様々な言われ方をしているのに、高校の先生にそこまで課するのは、ちょっと難しいなって思うんです。 」

宮地正人氏「僕も以前は遠山先生と同じで「なんだこの人は」と思ってたんですが、福澤諭吉の書簡集と全集を読んで、いやぁえらいひとだ、と思いました。
聖人君子だと思っているわけではないです。
人間的なところだってある。
しかしこれだけの人はザラにはいない。
やはり日本近代史の筋を通すのは、福澤諭吉をどう評価するかです。
これを曖昧にしては、日本近代史の通史は書けないと思っています。」

丸山眞男氏による解説

福沢が、一八八五年の時点でただ一回、「脱亜」の文字を用いて書いた『時事新報』の短かい社説は、その直前の一八八四年十二月に、李氏朝鮮で勃発(ぼつぱつ)した「甲申(こうしん)事変」とそのクーデターの短命な崩壊の衝撃の下に執筆された。(中略)甲申の政変が文字通りの三日天下に終わったときの、福沢の失望は甚大であり、またこの事件の背後にあった日本及び清国政府と李氏政権とが、それぞれの立場から、政変の失敗を日和見(ひよりみ)主義的に傍観し、もしくは徹底的に利用した態度は福沢を焦立(いらだ)たせるに充分であった。「脱亜論」の社説はこうした福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない。

282-283頁

福沢は明治十八年(一八八五)三月十六日の『時事新報』の社説を「脱亜論」と題し、そこで「脱亜」の論旨を展開した。これが論説の表題として、また社説の内容に、彼が「脱亜」の文字を使用した唯一のケースであって、それ以後、彼のおびただしい著書・論文の中で、この言葉は二度と用いられていない。ということは、少なくも、「脱亜」という言葉が、福沢において「自由」「人権」「文明」「国権」「独立の気象」といった言葉と並ぶような、福沢のキー・ワードでなかったことを物語っている。「入欧」という言葉にいたっては(したがって「脱亜入欧」という成句もまた)、福沢はかつて一度も用いたことがなかった。

281-282頁

坂野潤治氏による解説

甲申事変が失敗して、改革派援助による朝鮮近代化=親日化政策が完全に失敗したことは、福沢にとっては、朝鮮問題に関する明治十四年初頭以来の状況構造が根底から変化したことを意味した。このとき福沢は、朝鮮国内の改革派を援助しての近代化政策をこれ以上追求することは無意味であることを宣言するために「脱亜論」を書いたのである。これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。福沢の「脱亜論」をもって彼のアジア蔑視観の開始であるとか、彼のアジア侵略論の開始であるとかいう評論ほど見当違いなものはない。

337-338頁

北岡伸一氏による解説

西洋と同じマナーでアジアと交際するというだけのことである。むしろここで福沢が言っているのは、日本は朝鮮を独力で文明開化に導き、特殊密接な関係を作りあげたいという明治十四年以来の構想を断念したということであった。むしろ、朝鮮の文明開化に熱中した福沢の敗北宣言(坂野潤治)であった。

255頁

清水義範氏による解説

▼外部リンク 出典元

脱亜論 まとめ 【福沢諭吉】



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