歴史
Image may be NSFW.
Clik here to view.
アンリ四世は毒殺を恐れて自室で卵をゆでていた
フランスのブルボン王朝の祖となったアンリ四世は毒殺を恐れて、いつも自分 でセーヌ川に水を汲みに行き自炊で卵をゆでていたという。というのはアンリ四世は毒殺未遂事件も含めて生涯に十七回も暗殺の危険にさ らされたというから、安易に毒味役を置くなどという悠長なことはしておられなかっ たのである。とにかく身の安全を考えると、まず自分が口にする食べ物の安全性を充分に確かめなくてはならず、細心の注意を払いながら自前で不慣れな調理もやっていたというなのことである。
天ぷらを食べまくったチャップリン
帝国ホテルに宿泊し、箱根の富士屋ホテルにも逗留。また銀座の「花長」で海老の天ぷらを36匹も食べ、さらに「花長」で修行した調理師が乗船しているということで、帰国時の船を氷川丸に決めたのはこの最初の来日のこと。その後も繰り返し天ぷらを食べ続け、゛天ぷら男″のあだ名がついた。
缶詰を作らせたのはナポレオン
缶詰の原理は「密封」と「殺菌」過程にあるのだが、これを1804年に発明したのがフランス人のニコラ・アペールだ。そもそも発明の起源は、ナポレオンがフランス人兵士向けの携帯食料としてアイデアを募ったもの。軍艦などで遠征中の兵士が栄養失調になりがちなフランス軍の士気低下を危惧したナポレオンが、食品の新しい保存方法を募集した。それに応募したニコラ・アペールの案が採用された事が始まりなのだ。
缶詰の原理となるアペールのアイデアは、調理した食品をビンに詰めて温め、空気を追い出しコルク栓をする事で保存する物。この保存方法の発明に対し、ナポレオンは1万2千フランの賞金を贈っている。
缶詰はハンマーとのみ、戦場では銃剣によって開封されていた1858年、アメリカ合衆国のエズラ・J・ワーナーにより、缶詰に突き立て、引き廻し開ける缶切りが発明された。その約10年後、缶の縁を切る方式が発明された。缶切りの発明以前は、無理にこじ開けることによる銃剣やナイフの破損といった問題も見られた。
マーガリンはナポレオン3世が作らせた
製品としてのマーガリンは、19世紀末に発明された。
1869年にナポレオン3世が軍用と民生用のためにバターの安価な代用品を募集したところ、フランス人のイポリット・メージュ=ムーリエが牛脂に牛乳などを加え硬化したものを考案。これは、オレオマーガリン (oleomargarine) という名前がつけられ、後に省略してマーガリンと呼ばれるようになった。
昭和天皇はフグを食べることを許してもらえなかったため、恨み言を言った
フグには毒があるのだぞ昭和天皇の戦後の全国巡行のとき、下関のフグ料理で有名な旅館、春帆楼に泊まった。侍従たちはフグちり、フグ刺しを堪能したが、天皇の口には当然入らない。翌日、陛下はうらめしげに侍従たちに「フグには毒があるのだぞ」とのたまった。
きょうも鰻だったね昭和天皇が北陸を巡幸されたのは、終戦の翌々年である。第一夜の夕食に出た鰻(うなぎ)をきれいに召し上がった。翌日の新聞に「お好きらしい」と記事が載る。行く所、行く所に鰻が待っていた。「きょうも鰻だったね」。笑って話されたと、侍従の入江相政(すけまさ)さんが随筆に書いている。
肉じゃがは東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューを無理に再現させようとして作らせた物
舞鶴鎮守府の初代鎮守府長官に着任した東郷提督は、イギリス留学時代に食べたビーフシチューの味が忘れられず、部下に「ビーフシチューをつくれ」と命じたのであった。ビーフシチュー等知らなかった料理長が、 デミグラスソースの代わりに醤油と砂糖を用いて悪戦苦闘の課程でつくりあげたのが、『肉じゃが』だったのである。
以後肉じゃがは、「洋食の代用食として効果的に牛肉を摂取させる事が出来る画期的料理」として海軍で大いにもてはやされる事となった。
日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった海軍の横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用し、海軍当局が1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載して普及させ、海軍内の脚気の解消に成功した。さらにその後の第一次世界大戦を通じ、海軍、陸軍ともにその普及につとめた。
予言者として知られるノストラダムスには『化粧品とジャム論』という著作がある
『化粧品とジャム論』は、フランスの医師・占星術師ミシェル・ド・ノートルダム(通称ノストラダムス)の医師としての主著の通称。初版の扉には、『若干の魅力的な処方についての知識を得たいと思う全ての人々にとって優良かつ大変有益な二部構成の小論集。第一論文は顔を麗々しく、一層美しいものにするための美顔料や香料の作り方。第二論文は目次で多く言及されている通り、蜂蜜、砂糖、濃縮ワインなどをたっぷり使ったいくつかのジャムの作り方の手ほどきを示すもの。プロヴァンス州サロン・ド・クローに住む医学博士ミシェル・ド・ノートルダム師が新たに編纂し、新しく公刊されたもの』と記載されていた。
この説明的な題名が示すように、第一部が化粧品論、第二部がジャム・菓子などの製法になっていた。
ビスマルクは牡蠣を一度に175個も食べたことがある
いかめしい顔付きからはなかなか想像がつきにくいが、かなりの美食家だったようだ。
▼外部リンク 出典元