歴史
日英のハーフ?
比叡の艦名は京都の鬼門に位置する比叡山による。
比叡は組み立てこそ日本で行われたものの、就役を早めるためもあり、部品の大半はヴィッカース社からの購入で賄われた。
まぁ、金剛が生粋のブリティッシュガール(?)とすれば、いわば日英のハーフとも言える。
スケープゴートで練習戦艦へ
超弩級戦艦の建造競争で疲弊した列強各国は、ロンドン軍縮条約で戦艦の建造枠を取り決め、それを超えた場合は解体などの処置を講ずることを約した。
日本海軍も多すぎる戦艦を減らす必要に迫られたのだが、そのターゲットとなったのが、金剛姉妹のなかでもっとも改装が遅れていた比叡。
2年半にもおよぶ放置プレイ作業中止の後、条約に適合させる為に戦闘力半減という逆大改装を受けて練習戦艦となる。
工事は4番主砲と舷側装甲の撤去及び機関の変更が行われ1932年(昭和7年)12月31日に完了、翌1933年(昭和8年)1月1日に練習戦艦に類別変更された。
機関も取り替えられ、自慢の快足も18ノットにまで削減。目印でもあった煙突も三本から二本へと減らされ、“お年寄り”と表現されるほどの寂しい姿になってしまった。
後の艦長・西田正雄も改装された比叡を見て涙ぐんだという
1941年(昭和16年)9月10日、有馬馨大佐の後任として、練習戦艦「比叡」艦長となった。
なお舷側装甲は廃棄されず、将来を見越して倉庫で保管されていたという。
練習戦艦になったがゆえに得られた栄誉
比叡は、練習戦艦となった際の兵装の撤去により艦内に余裕のあること、また艦隊所属でないためスケジュールの組みやすいことから昭和天皇の御召艦として利用された。
御召艦として展望台や御座所が設けられ、観艦式の前には二週間に及ぶ乗員の徹底的な清掃が行われた。
練習戦艦から最新鋭装備艦へのシンデレラストーリー
練習戦艦としての役務に就いていた「比叡」も、昭和11年12月末でロンドン海軍軍縮条約切れるのをまって、戦艦への大改装を施す事になった。
英国は「比叡」の再武装を在日本英国代理大使を通じて抗議し、本艦の廃棄処分と日本政府の説明を求めた。
これに対し日本政府は、「比叡を練習艦として保存するという制限は、条約の効力存続を前提とするものであって、失効後は制限も消滅する」だった。
この改装は、姉妹艦3隻が一次、二次と2回において行った改装を一度に行うもので、かつ時期的にも後だったため、工事内容も新式化を織り込んだ一層徹底したものとなり、約35ヶ月を費やして昭和15年1月31日に完成した。
比叡の改装は大和型戦艦のテストとしての意味もあった。そのため、艦橋は大和型戦艦と似た塔型(筒型)構造を採用しており、ほかの姉妹とは艦影が異なる。
それまでの戦艦の艦橋は、太い支柱に指揮所やら電探やらをくっつけた城郭型檣楼(パゴダ式)だったという。
他の姉妹艦とは全く艦影が変わってしまい、逆に「大和」級に似たイメージを出すことになった。
宇垣纏連合艦隊参謀長は、著作の中で「改造の最後艦にして最も理想化された艦」と述べている。
▼外部リンク 出典元
『艦これ』練習艦から最新鋭装備艦へ!!戦艦「比叡」さんのシンデレラストーリー