歴史
1823(文政6)年〜1864(元治元)年
1823(文政6)年に萩藩士の子として萩で生まれ、藩校「明倫館」に学びました。
後に政務役までなる人にしてはやけに家禄が低い。生家も、お城をかなり離れた城下町の一番すみっこにあり、格の高い家柄でなかったのは確かなようです。
弘化3 (1846) 年,嚶鳴社を結成して経書の研究に励み,家老村田清風の知遇を得た。
政之助は村田清風の影響を多大に受け、吉田松陰や松下村塾を支持、応援していたという。
弘化4年、24歳で蔵元検使暫役に登用され、後はトントン拍子に出世、たまに挫折。
長州藩の改革を進めます
江戸湾岸警備に割り当てられた長州藩の財政は火の車。大変な時期に藩の舵取りをまかされた周布は、かつての長州藩を財政破綻の危機から救った村田清風のラインを継承し、革新をメインに打ち出します。
村田清風の政敵だった坪井九右衛門一派で政之助を抜擢してくれた椋梨籐太と対立する。
嘉永6年(1853)政務座役(右筆)筆頭に昇進し、村田清風の後を継いで藩財政の建て直しを図ったが、保守派に反対され辞職。
吉田松陰とも親しく長州藩官僚の中では、最も彼を理解していたが間部要撃など松陰の言動が過激になると野山獄に投獄した。
有能な人材は、くだらんことで処断しない、という。これで吉田松陰先生も高杉晋作も命拾いしまくってますもんね。
安政5年(1858)再び政務座役となって安政改革を推進し、人材登用、洋式軍事改革などを行う。
安政5年の安政の大獄中,藩使として朝廷に密かに入り,開国の止むを得ないことを入説した。
洋学を重視し、大村益次郎を登用して洋式の軍備への改革を進めるなど、優れた人材を活用しました。
酒で問題を起こす
土佐藩前藩主山内容堂に対し、酒に酔って暴言を吐いてしまったため、謹慎処分を受けました。 このとき、名前を「麻田公輔」と改めました。
慰労の酒に酔って「容堂公は尊皇攘夷をおちゃらかしなさる」と、土佐藩士たちの面前で人んちの殿様を侮辱。
大酒飲みの山内容堂は、酒の上の出来事と政之助を許しました。
1864年(元治元年)、酒に酔った勢いで、投獄中の高杉晋作に会いに行き、再び謹慎処分を受けました。
酔っ払った周布さんは馬に乗って高杉の入ってる野山獄までえんやこらと出かけていき門前で抜刀、ビビる獄吏のまえで高杉の名を絶叫しました。高杉の獄中日記(意外に筆マメ)にもそのことが書かれています。
失脚そして・・・
元治元年(1864)禁門の変を起こしたことで長州征討が決定し、4ヵ国連合艦隊により下関の砲台が壊滅されると、椋梨藤太ら保守派に藩政の実権を奪われる。
1864(元治元)年9月、身を寄せていた吉敷郡矢原村(現 山口市矢原)の大庄屋・吉富家で自刃しました。満41歳でした。
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