歴史
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日本海軍の軽巡洋艦。球磨型の4番艦。
姉妹艦は 球磨・多摩・北上・木曽の4隻。
なお由来は静岡県を流れる大井川。
不調のため戦前は他の艦と艦隊行動を組むことは少なく、1928年12月10日海軍兵学校練習艦となり、しばらくのあいだ海軍士官の卵たちを鍛えた。
北上さんと一緒に改装
同型艦「北上」と共に、日米両海軍の艦隊決戦に備えて一旦重雷装艦に改装された
北上さんと同じ戦隊
大井と北上は第1艦隊第9戦隊に配属された。
開戦から1ヶ月後、連合艦隊参謀長であった宇垣纏少将が大井を視察。その際「重雷装艦の戦術ってこの先どう考えてもやる機会ないだろJK・・・」と海軍軍令部にぶっちゃけてしまう。
その雷撃能力を発揮する機会は訪れず、前線においての輸送任務に就きました
北上さんと一緒に運び屋家業
1943年の「大井」の活動は南西方面での輸送作戦、たまにオーストラリア方面から出撃してくる爆撃機との対空戦闘です。いちいち書いていると切りがありませんので、主な輸送任務地だけ。
結局は北上さま共々、せっかく増やした発射管を一部外して高速輸送艦として改装。輸送任務に従事している。
北上さんとの別れ
1944年7月、輸送任務のためにマニラ湾を出たところアメリカ潜水艦の雷撃を受けて1本の魚雷が艦尾付近に命中してしまいます
当時は台風による荒天模様となっており、乗員による必死の復旧作業が行われたものの作業は捗らず、更に艦尾の被弾により機関が全滅しており、復旧を妨げました
遂に、荒天の影響により被弾箇所から船体が断絶してしまい、その姿を波間に消して行きました
敷波が柴勝男艦長と368人の乗組員を救助したが、153人が戦死した。
「大井」は結局1本の魚雷命中で沈んでしまいましたが、これは命中個所が悪かったこと(機関室を貫いています)、艦内閉鎖が完全になっていなかったこと、何より荒天のため、応急作業が阻害されたことが上げられます。
転生してもきたかみさんの傍へ
4番艦「おおい」は昭和39年1月に竣工、特務艦を経て平成5年11月に除籍されました。
多くの海軍艦艇と同様に、彼女の艦名も海上自衛隊の護衛艦名に受け継がれている。
彼女がいすず型護衛艦4番艦「おおい」として再びこの世に生を受けたのは昭和39年。大湊を母港とする第32護衛隊に配属された彼女がそこで出会ったのは…いすず型護衛艦3番艦「きたかみ」さまだった。
まさかまた巡り合いうとは・・・
先代の重雷装艦とは異なり、対潜水艦戦のエキスパートとなった
彼女たちは、その後30年の生涯のほとんどをまたも一緒に過ごし
▼外部リンク 出典元
『艦これ』軽巡「大井」さんは転生してもきたかみ(北上)さんの傍にいた!!